ごはんの会(国分寺)

上京して、まもなく10年になる。嘘だ、と思う。東京に来て10年。そんな膨大な時間が自分のなかで流れていたこと、それが漠然と、自然と、流れていたことに、ただ驚く、という言葉でも、納得できない、という言葉でも、なにか違うものがある。けれど、長崎にいたほうがよかったんじゃないかとか東京に来なきゃよかったなあとか、そんなことを考えたことは、10年間、一度もない。来てよかったと感慨深くなることもあまりなく、自分の人生のなかで、この流れは、当たり前のような、それこそ、自然な感じがする。


上京が決まったとき、大学の寮に入れと父親に言われた。けれど3月に進学が決まったため、寮の空きがあるか分からない状況だった。念のため、一人暮らしする家も探した。家賃は高かったが、父親が見つけたのは新宿のマンションで、土地勘がよくわからないながらも、都心に住むのか、と思った。寮よりもそっちのほうがいいな、と少し嬉しかった。しかし、あっさり入寮が決まり、新宿から離れた、中央線沿いの寮に入ることがばたばたと決まった。


寮があったのは、中央線の武蔵小金井駅国分寺駅のちょうどあいだの小平市。どちらの駅からも徒歩20分ほどという、好立地とは言えない場所にあった。基本的にバスで10分ほど揺られて着く。寮の入り口には寮母さんがいて、そこで鍵をもらう。わたしの部屋は214号室だった。214、と書かれた鍵を持って部屋に入る。机とベッド、クローゼットがある6畳ないくらいの部屋。フローリングではなくてピンクのカーペット。これから、わたしが住む部屋。実感もあまり湧かず、父と無印良品へ行き、ベッドのあれこれと必要なものを買ってまた寮へ戻った。

入寮の手続きが済み、入学式は見ずに父が帰ることになった。さみしそうに帰る背中を駅で見たことを10年経っても覚えている。


いよいよ東京での一人暮らしが始まった。まだ何度目かの寮母さんから鍵をもらうとき、「今、歓迎会が始まったところよ。」と言われた。歓迎会があることを把握しておらず、部屋に帰ってからどうしようかと考えた。一人で寂しかったし、とりあえず行ってみるか、と、寮母さんに言われた場所へ向かった。

女の子たちが大きな輪になって、そこにいた。真ん中にはささやかな料理、サンドイッチやフルーツ、そんなものがあり、誰かが話していた。

では、始めましょう、と、みんなが料理を取りに行ったり、近くの女の子同士会話を始めたりしていた。どうしようかと思っていたとき、これから長くを共にする彼女たちと出会った。


どうして、彼女たちと会話をする運びになったかはもうぼんやりとしている。ただ、同じ学科の子がいて、それで話すようになった気がする。ほなみ、と言う彼女は、金髪ボブで入学式のとき見かけた。ほなみと同郷だという女の子は、さゆりちゃん。さゆりちゃんと同じ学科という女の子は、ちなつちゃん。新潟と静岡出身だという。まだ寮で友達が一人もいなかったので、彼女たちと話ができてほっとした。話をしていくと、もうひとり、鹿児島のきりこちゃんを加えて、みんなで夜ごはんを作るらしい。


それから、寮に帰ると月曜、火曜、水曜、木曜、金曜日はそれぞれ担当の子の部屋に行くことになった。その曜日担当の子が、5人分のごはんを作る。今考えると、それまで料理をしていなかったのに急に5人分作るとはすごいことだ。

5人のなかで圧倒的に料理が上手かったのはきりこ。鹿児島の島出身で、独特の訛りがある(10年経った今も訛っている)彼女は、ポテトサラダが特に上手で、ほかにも手の込んだ料理をよく作ってくれた。きりこの水曜日はみんなの楽しみになっていた。金曜日のほなみ、火曜日のさゆり、木曜日のわたしは、オムライスが多かった。月曜日のちなってぃ(当時はこの呼び方ですごく嫌がっていた。今はちなとみんな呼ぶ。)はオムレツ。わたしのごはんはみんなのなかでどう映っていたんだろう。聞いたことはないのでわからない。


自然と5人は「ごはんの会」という名付けのもと、寮にいるとき、いないときも、いっしょにいることが多かった。心配していたホームシックなんて、一度もならなかった。


わいわいごはんを食べて、そのまま金曜ロードショーを見たり、舞台衣装のスパンコールを縫うのを手伝ったり、談話室で浴衣を夜な夜なほなみと縫ったりしていた。朝早くからラジオ体操をするさゆりの部屋に、朝が苦手なわたしは遅れて行った(よく起きれなくてほなみに起こしてもらっていたなあ)。メロンパンやホットケーキを朝から食べた土曜日のことも、雪が降って遊んだことも、留学へ行くちなのためにムービーや歌を作ったことも、それで寮長に怒られたことも、みんなの誕生日を祝い続けていたことも、たくさんの思い出を忘れてなんかいない。


2年生になるとき、きりこが退寮することになり、ちなも留学のため退寮することになった。

そして3年生になるとき、わたしも退寮することにした。

ごはんの会は実質1年で散り散りになったが、仲が良かったし、「ごはんの会」のラインは10年経った今も、鳴り続けている。

結婚したり、子供ができたり、故郷に戻ったり、5人が5通りの道を進んでいる。東京にいるのはもう2人だけで、結婚していないのも2人だけ。旅行をしたり、誰かの家に泊まったり、ごはんを作ったり、年に1回は会っていたが、最近はなかなか5人が揃うことはない。

そしてあれから、国分寺に行くこともない。久しぶりに行ったとき、再開発でまったく知らない場所になっていた。いつも乗っていたバス停も姿を消していた。あるのは、ごはんの会の、思い出だけだ。みんなで作った合言葉がある。


辛いとき

悲しいとき

魔法の言葉を

唱えてみよう

せーの

ごはんの会!


f:id:izumikubo0328:20210301203926j:plain