先に進む(亀有)

大学時代の友人に、羨ましいと思う子がいた。私の通っていた大学はファッションを学ぶための学校だった。学科によって学ぶことは違うのだけれど、彼女の熱量やファッションにかける想いというものが、他の子とは違っていて、私の熱量なんか到底及ばない子だった。仮にNちゃんとしよう。

Nちゃんは地方の出身だった。いつからどうしてファッションに目覚めたかは知らないけれど、高校時代から英語に人より興味があって、留学なんかもしていた。寮で出会って話していくにつれ、彼女のみている世界はとても広いものだと思った。スケールがどこか違うのだ。私は日本で生まれ育ち、外国に強い興味もなかったから、海外に行きたいなんて思いもなく、日本で当たり前に生きていることになんの疑問も持たず生きていた。Nちゃんは校内でわずかな人しか行けない海外留学を目指していた。英語の勉強もファッションの勉強も人一倍していたのだろう、そのわずかに選ばれて、ニューヨークにある学校に一年間ほど行くことになった。当時の私は、すごいね、頑張ってね〜としか言う他なかったが、今思えば、私ももっと頑張れたんじゃないか、もっと勉強することがあったんじゃないか、と思う。

Nちゃんはニューヨークから帰ってきても、学外で衣装のお仕事をしたり、学内でも頑張っていた。彼女はどこか達観していて、私より大人びて見えた。価値観も考え方も、私にはないものだらけ。けれどNちゃんに対して羨ましいとか達観してるねとか言うこともなかった。言えたのは卒業して5年以上経った最近のことだ。

大学を卒業して、私もNちゃんもファッションの会社に入った。しばらくしてお互いその会社も離れたのだが、今も好きなことを仕事にしている。

プライベートはというと、私とNちゃんは正反対だ。Nちゃんは仲良しメンバーの中でも、一番早くに結婚した。穏やかで優しい旦那さんと。一度、私の高校時代の友人と4人で音楽フェスに行ったことがある。私もその友人も、結婚願望はあるがいまだにその兆しはない。忘年会と称して最近会ったら、Nちゃん達の話になり、2人の間に生まれた子どもがつい先日1歳になったと言うと目を丸くしていた。

仲良しメンバーも次々に結婚、出産をしていて、きっと私だけ取り残されるのだろう。まだ焦りはないし、もう少し自分のために生きたい。文章を書いて、仕事をして、好きな服を買いたい。結婚は考えるけれど、子どものことまでまだ考えられないのが現実だ。

Nちゃんとはよく連絡も取り合うのだが、子どもにあげたいプレゼントがあったので9月ぶりに会うことになった。クリスマスのシーズンになっていたので、ちょっとしたサンタクロースだ。新居にお邪魔したい、と言ったら快く向かい入れてくれた。子どもは寝ていたのだが2時間くらいで起きてくれ、プレゼントで一緒に遊んだ。遊んだというよりも遊んでもらったというほうが近い。もともと図書館に行こうと計画していたので、せっかくならと亀有にある絵本の図書館・ミッカに行くことにした。もう冷たい風が吹き付けていて、瞬きを知らないNちゃんの子どもは目に涙を溜めていた。

ミッカは商業ビルの7階にあって、私も母も大好きな絵本『こんとあき』の林明子さんの展示もしてあった。Nちゃんの子どもは、絵本そっちのけで動き回り、段差という段差を上り下りしていた。そんな姿を見ては笑顔が溢れ、写真ばかり撮っていた。

Nちゃんはすっかり結婚をし、子どもを産み、立派なお母さんになっている。いつも目先のことばかりでダメな私にしっかりとアドバイスをくれる。どんどんNちゃんは私の先を進む。お母さんになるってどういう感覚なんだろう。想像もできない。

Nちゃんが好きな作家さんの本を借りた。読むたびにNちゃんの顔が浮かんで、羨ましさや追い付けなさは変わっていない気がした。

それでも思うのは、私は私だということ。ミッカで、小学生の女の子に「私もちょうちょ好き」と声をかけられた。ちょうちょは、久しぶりにネイルをして、ちょうちょのパーツをつけてもらっていたから、その指先に止まっているものを見て言われたのだ。きらきらしたちょうちょや石の指先はうっとりするけれど、生活はしにくい。きっと家庭があって家事や育児があればできないものだろう。私の好きなものはまだどこか幼くて、少女のつづきなのだ。

「可愛いよね。お姉ちゃんも、ちょうちょ好き。」

好きなものは好きでいていい。我慢したり大人ぶったりする必要はどこにもないのだ。先に進むNちゃんと、私のスピードで進む私は、きっとどっちがいいとか正しいとかないのだ。自信をなくしたりもするし、これでいいのか不安になったりするけれど、私だけの速さで、進んでいく。亀有で手を振りあい、正反対の電車に乗った。

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ゆくえ(羽田空港)

悲しいとき、心がぽっかりするとき、羽田空港に私は立っている。その悲しみを忘れるためのように、はたまた、悲しみを深めるために。どこかへ行って、どこかへ帰っていく、ここではないどこか。羽田空港は銀色に光っていて、つめたいにおいがする。かつて好きだった人に、Twitterのダイレクトメッセージで「おじいちゃんが死にました、悲しいけれど、おなかは空くので、崎陽軒シウマイ弁当を食べています。」と送った。崎陽軒シウマイ弁当は、悲しくて何も食べたくないときに食べる。つめたくて、そっけない味がして、良いのだ。一つ一つ食べるごとに、悲しみを食べていく感覚だ。

羽田空港に行く前の土曜日、横浜駅で、血をだらだら垂らして、泣くでも喚くでもなく、冷静に、血が止まらないなあ、と思っていた。自分でしたことなのに、血が赤いことにどうも納得がいかない。透明な血ならばいいのにな。私の左腕を見た彼は電話を切って、目をまあるくした。じっと、傷ついた腕を見つめて、何か声をかけられた。もう見放してください、知らないふりをして帰ってください、兄に連絡してください、と言う私に対して、どうにか一緒にいる方法を模索してくれた。どんどん抜けていく血、体はふらふらで、お気に入りの大島智子さんのハンカチがどんどん赤色に染まっていったことが何より悲しかった。土曜日の夜、ビジネスホテルはどこもいっぱいで、なかなか見つからない。このまま夜道を散歩してもいい、と言っていた横顔が好きだなと思った。離されない右手。つい数時間前まで、居酒屋で飲んで、カラオケに行って、楽しかったのに、どうして今、私は血だらけなんだろう。一緒に歌ったあの曲、上手に歌っていたあの曲、忘れられないんだろう。

数軒電話をして、ようやくホテルが見つかった。私の不安定な行動に、対応する人はさまざまな方法を取り、話しかけてくれる。みんな、今、どうしたら私が落ち着くのかっていうところに観点を置くのだけれど、彼だけは違っていて、未来を見てくれていた。自分が一番大事だから、と言っていたが、そんな人がここまでしてくれるわけがない。話していたら、薬が聞いてきて、すこん、と眠った。朝起きたら、彼が隣でゲームをしていた。帰ろう、と言われて、遠い私の家まで送ってくれた。やさしさっていうものをめいいっぱい噛み締めて、左腕の傷を眺めた。

倒れるように日曜日は眠った。何も考えたくなかったし、明日大分へ行くのかと思うと、体が行けないよと叫んでいた。しかしこのままこの狭い部屋で、小さな東京で、息をするのは、それもそれでしんどいことだ。母に、行けないかも、と連絡をし、荷造りなどもせず、夜になってそのまま寝た。

お昼前に目が覚めた。ワンピースを着て、ワンピースを二着、旅行カバンに詰めた。身一つで行くかも、と言ってたのに、結構な荷物になった。メルカリで届いたばかりの薄手のコートを羽織る。空港まで車で送るよ、と言ってくれた人のお言葉に甘えて、家まで迎えに来てもらう。ほとんど喋ることもできずに、ゆらゆら車に乗っていた。立っているのが、やっとだった。

お母さんのいる大分へ行くのは、先週東京へ飛んできた母親との約束だった。どうしても先週は予定があって帰りたくなかった。何を言われても、私の生きている根幹に、音楽や映画、本や演劇があるから、家族よりもそちらを優先してしまう。だめだなあと分かってはいるのだけれど。

お母さんに買っていくお土産は、白いチーズケーキだと決めていた。お土産を選ぶのが好きすぎて、飛行機に乗り遅れるほどだった。羽田空港は好きだ。好きなお菓子や目新しいお菓子がたくさんあって、どれを誰に食べてもらうか、考える時間も好きだ。けれど今回はそんな余裕もなく、母に一つだけお土産を買って、あとは空港でぼうっとしていた。

ゲートを通り、搭乗口までの道のりに、伊勢丹があって、思わず入る。お母さんにはミナペルホネンのタオルを買っていたけれど、何か他にもないかなと思ってしまう。結局、メンズしかないと店員さんに告げられ、伊勢丹はすぐに出た。

そういえば何も食べてなかった。甘いもの、チョコレートならば、入りそうだと思った。スタバがあったので、いつも頼むダークモカフラペチーノを選ぶ。兄が飛行機の手配をしてくれたので、ANAの飛行機だった。LCCばかりの私にとってはいい飛行機だった。

羽田空港にいると、ほとんど一人のシーンばかり思い返す。人って、一人で生きていけないって言うけれど、結局のところ、みな一人なのだ。悲しみは誰かに分けることが本当の意味ではできないと思う。悲しみを受け入れるのは、この私しかいないのだ。

飛び立った飛行機から、雲を眺める。白の世界、悲しみよ消えていけと、願ったけれど、本当のことは、私しか知らない。

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i(ハワイ)

「新入社員の君たち全員で、社員旅行、ハワイに行ってきなさい!」

 

副社長が笑顔で言ったそのとき、真っ先に、どうしたら休めるのか、どうしたら行かないで済むのか、頭をフル回転させたのは私だけだっただろう。歓声があちこちで上がるなかで、そのイベントにがっかりしたのは私だけだっただろう。

頑固で真面目(よく言われることで自覚もしている)、それに加えてお姫様気質(これは最近ハマっている占いで二度も言われた。天性の貴族らしい。)のわたしは、アパレルのおしゃれな同期たちに馴染むことは不可能だった。「お写真撮ってない人〜」と研修で言ったとき、くすくす言われたことをまだ根に持っているというか、すごく覚えている(別にいいじゃん!と腹が立った!)。結局、同期の飲み会には一度も行かず退職した。それでも退職するころには、同期たちがすごく光っていて、眩しくて、素晴らしいということにも気が付いた。

しかし社員旅行を突きつけられたのは、入社して半年足らずのころだった。当時、入社した会社が何周年だか記念の年だったため、全社員、社員旅行に行っていた。近いところで金沢、沖縄、台湾、そしてみんなが一番行きたがったのがハワイだった。社員は好きな人と好きな旅先を選べる、というシステムだったのだが、新入社員にいい思いをさせようと、全員ハワイだった。愕然とした。ハワイに行きたいなんて、芸能人やキラキラしている人やミーハーな人だとばかり思っていたから、行きたくない、という思いだけ募った。

入社当時から気の合うメンバーは5人ほどだった。そのうちの一人のわたちゃんと仲良くしていて、どうしたら二人でみんなと別の場所に行けるか考えた。上司に聞こうかと思ったが、失礼な気がして聞けなかった。そうしてずるずると出発日になった。

トランクも新しく買わないといけなかった。すべてにわくわくしない荷造りだった。真新しいトランクのなかには、ハワイに行くとは思えない荷物が詰まっていた。お気に入りの花柄のワンピース。親友がくれたワンワンのぬいぐるみ。本が5冊。詩集がいくつかと、小説がいくつかだったと思う。その小説は、ハワイで読了しようと、なんとなく本屋で手にとった西加奈子の『i』。飛行機の中や精神が乱れた時に読もうと全部単行本で、かなり重かった。

いつもの5人ほどのメンバーでかたまり、写真なども撮った。飛行機は怖くて大変だった。気がつけばハワイについていた。

むわん、とした、暑い風を感じたのが、最初のハワイの印象だった。12月なのに、真夏だった。バスに乗り込み、目的地に行った。(土地勘がないので、ハワイのどこに行ったのか、まったく覚えていない。)となりで、同郷のゆりが、すやすやと寝ていて写真を撮った。チェキを持ってきていて、写真はたくさん撮りたいな、と思っていた。仲のいい同期が、このあと辞めることを知っていたから、もう、みんなでハワイにくることも、ないだろうなと、すこし感傷的になっていた。

ハワイのホテルに着いた。わたしたちの部屋は32階で、プールや海が見える。なんて最高なんだ!と思った。ここで、このベランダの椅子に腰掛けて、本を読めば、そんな最高なことはない…とわなわな興奮した。少しずつ、身体がハワイの風に、満たされていた。

三日間ほど、ハワイで過ごすことになるのだが、ハワイのどこどこに行った、とか、そんなことは全然覚えていない。わたちゃんと自転車で美術館をふたつ巡ったこと。ケイスケカンダの服を着て、全力で自転車を漕いだ。外人に車から話しかけられて、美術館はとても美しかったのだが、どこかの民族のところだけすごく怖い、と、冷たさを思ったこと。帰り道がわからなくてパニックになり泣いたこと。

初日に一瞬、海に入ったこと。たぶん10分も入っていない。水着は持ってきていなくて、服で入った。夕方が近かったので寒くてすぐにホテルに戻ったこと。

どこに行っても、ワンワンのぬいぐるみといっしょだったこと。

文房具屋さんでたくさんの文房具を買ったこと。

夜、みんなで遊んだこと。けんかしたこと。

朝日を見に行ったこと。嬉しくて、美しくて、ハルさんに電話したこと。

アサイーボウルを食べたこと。

『i』をハワイで読み切ったこと。とても、とても、良い小説だったこと。

ハワイに行ってよかったと思えたこと。

 

あんなに行きたくなかった土地。文化がないと思っていた場所。

たくさんの歴史があって、たくさんの人が楽しそうで、まったくの偏見で生きていた。実際に来てみないとわからないことがあった。

最初で最後の、この会社での、社員旅行だった。

2016年の12月の思い出だ。あれから5年経って、仲の良かったメンバーのほとんどが、この会社を辞めた。もう、二度と、集まることはないだろう。

 

2017年1月、師匠と新宿で会った。12月、ハワイで読んだ西加奈子の『i』について話したかった。

「わたし、12月に、ハワイに行ったんです。」

「えっ、わたしも行ったのよ!」

二人して、二人ともが、縁もゆかりもなさそうな、ハワイに行っていた。

 

「ハワイには文化がないって頑固として思ってたの。でも、行ったら楽しくて、なにも、しなかったの。」

 

師匠の言った言葉、私の思ったこと。どこでも通じている、わたしたち。

『i』を読んだことを告げたら、師匠も、西加奈子の小説を持って行って読んでいたという。そんな奇跡が、起こる。

 

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ーいつか、この日々のこと、なつかしいとか、思うのだろうか

 「きのうのこと、おぼえてる?」

繭(東中野)

繭のなかにいるみたい。

 

大切な漫画『cocoon』(今日マチ子)の中に出てくる台詞だ。

東中野に住んでいたとき、まるで、繭の中にいるみたいだった。

 

いくつかの出来事が重なって、わたしは荻窪の家になかなか、というか、ほとんど帰ることができなくなった。それどころか、まともに生活することもできなかった。泣いて、震えて、どうしようもなくて。それを救ってくれた人が二人いる。どちらも、私の人生で、大切な人。でも、もう二度と、会えない人。

家に帰っても、私は何もできなかった。着替えることはもちろん、ごはんを作ることも食べることもままならず、ベッドで泣くか、泣かないでぼうっとすることしかできなかった。体操座りのまま、何処へも行けず、何もできなかった。スーパーやコンビニに行っても、何を買えばいいのかわからなくなって、とにかくカゴにいっぱい入れて、散財した。今より買い物もひどかった。何が自分を支えているのか、大好きだった映画すら、見れなくなっていた。

それが病気だということに先に気がついたのは、彼だった。学生時代からお付き合いをしていて、一度別れた彼だった。春に、やっぱり戻りたい、と連絡があった。私はそれどころじゃなく、「ごめん、今、こんなことがあって。すぐに戻ることは絶対にできない。」とかそんなことを彼に言った。彼は、私のぐちゃぐちゃな事情を聞いてもそばにずっといてくれ、支えてくれた。そして、私がぼろぼろなことに、一番最初に気がついてくれた。まずは家だ、そう言って、あたらしい物件を見に行った。場所は、東中野

一軒家みたいなその家は、階段を登れば広い部屋があって、二つの空間がある。駅からも10分以内で近い。日当たりもよくて、ベランダも広い。奥の空間は屋根の形ですこし狭くて、それも心地よかった。一件目だったので、他も見ます、と言って、お腹が空いた私と彼は、駅の近くの韓国料理屋へ行った。

冷麺か何かを食べた。そして彼が言った。

「家も、ご飯も、何もかも、いずみちゃんのために用意する。付き合うとか付き合わないとか、今は、考えなくていい。だから、一緒に住もう?」

ぽたぽた、本当に、それはぽたぽた落ちる涙で、冷麺を食べる手は止まっていた。ただ、頷くことしかできなかった。私はただ、泣いた。

それから、すぐに一軒家のような、その家を契約した。中野駅の近くの不動産だった。一緒に住むのに、婚約者、と書かないと審査が通りづらいから、と、私の名前の横には、婚約者、と書かれた。ぼうっとそれを眺めることしかできなかった。帰り道に、友人にあげる花束を買った。

家の初期費用も、私の引越しの準備も、私の引越し代も、新しい家の家具も、全部彼が用意してくれた。わたしはベッドで寝ているか、IKEAに行くまでの道すがら、自分みたいな細い枝をぶんぶん振り回すか、わがままを言ってたくさんの家具を選ぶか、そんなことしかしなかった。IKEAで「いずみちゃん、これ、可愛くない?」と言われたのは、天蓋だった。白の、ふわふわしたものだった。うーん、どうかな。ベッドの上に飾ったら可愛いよ。買おう。とカゴに入れられた。帰宅して、天蓋をつけた。ああ、繭だ。繭の中にいるみたい。天蓋のなか、眠ると、そんなことを思った。

引っ越してから、職場まで15分ほどになった。近さゆえ、休憩のたびに帰って泣いたり食べれないごはんを無理やり食べたり、10分ほどしか家にいれなくても、それでも帰っていた。

そして、わたしが病気だと、彼が気がついたのは夏祭りのころ。近所の病院へ行ったが、まともな治療が受けられず、悪くなる一方だった。

そうして仕事にも支障が出て、働けなくなった。休むこともなかなか言い出せず、ミーティングも面談も、何も頭に入らなかった。停止した脳で、上司に、明日から休みます、と言った。迷惑をいろんな人にかけたと思うが、当時は、生きていることだけで、息をするだけで、立っているだけで、精一杯だった。

秋、大好きな仕事を終えて、療養することになった。一ヶ月目は東中野から外にでるだけで過呼吸を起こすくらいだった。電車になんて乗ることもできなかった。常に人の目線が怖くて、幻聴と幻覚を繰り返した。発狂して深夜、家を飛び出して公園に行った。翌日はひどい症状だった。朝7時から自転車で兄の住む街まで行ったりした。朝、とにかく早く目覚めてしまって、蒸しパンをひたすら作った。普通の時間なんて、どこにもなかった。東中野には大きなスーパーが二箇所あって、スーパーへ行くことはすごく楽しかったように思う。あとはブックオフ。歩いて行ける範囲にある幸せだけ握り締めていた。

彼は、どんなことがあっても、笑ってくれた。親友もすぐに飛んできてくれた。妹も。

ヒヤシンスを育てて、IKEAのお気に入りの家具の上に置いたり、陽の光を浴びせたりした。

彼が気に入っていた天蓋は、守られているようなのに、どこか怖くて、取ってもらった。繭の中にいることが、なんとなく、怖かった。

すこしずつ外に出られるようになって、東京の母的な存在の人に会ったり、同じ病気だった人に会ったりした。思い出すだけで、少し息苦しくなる。まったく飲めなかったフルーツティーのこととか、お守りのお茶とか本とか。

二月、大好きな人と、大好きな監督の映画を試写会で見させてもらった。魂ごと掴まれるようだった。心が熱くなって、雨道のなか私たちは燃えていた。

仕事に戻りたい。早いのはわかっている。まだ、休んでいないといけない。でも、でも、今じゃなきゃ、いけない。そう思って復職の準備をした。

四月、仕事に戻るタイミングで、彼からプロポーズを受けた。タイミング。あと、一ヶ月、いや、一週間、早かったら。私はまっすぐに。この人と。

 

「いずみさんは安心毛布にくるまっている必要はない。未来に飛び出して行ける人。」

 

わたしは繭から出て、未来に行くことにした。その未来には、また落ち込むこともうまくいかないことも、あの頃より大変なこともあった。

あれから三年。休んだ期間は二年。ようやく、光の方へ進んでいる。生き生きしてるねっていろんな人から言われるんだよ。会社をやめたよ。あたらしい職場で、君の好きな絵、また展示するよ。偶然会えるかもしれないし、会えないかもしれない。それでいい。君が、今、どこかで幸せならそれでいい。たくさん迷惑も心配もかけて、言葉にならないほどお世話になって、そりゃないよってことをして、後悔やごめんねがまったくないと言ったらうそだけど、私も私の道を、生きて行けそうだよ。

東中野でジャンプした。ねえ見てて、ジャンプするから、って何度も跳ねた。それを見て、君は笑っていた。

繭の中にいたころのこと、大事にされていたこと。忘れないよ、いつまでだって憶えてる。ありがとうなんて言えなくてごめんね。

繭の外に出て、私はまた歩いたり走ったりする。

またね。また会えたら。元気でいようね。好きだった人へ。

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拠点(新宿)

東京に来て、どこを拠点に生活するか、人々は分かれる。渋谷。池袋。そして新宿。多分大まかにまずこの三つが挙げられると思う。たくさんの路線があって、たくさんの人が集まる場所。その中でも群を抜いて人が多いのが、新宿。人も、ものも、ビルも。何もかもが溢れてて、何もかもがあって、何か本当のものがない。わたしは今ここにいるのに、新宿を行き交う人々にわたしは映っていない。ハローとグッバイが何度もある。わたしたちは出会って、別れて、また、出会う。新宿って、そんな街。

まず、この文章を書き出しているのも、新宿なのである。新宿のビックロはよく出来ていて、ちょっとした休憩室のような場所がある。昨日は東口のスタバにいて、ルミネエストでTシャツを買った。伊勢丹には傘を忘れて、取りに帰る頃にはネックレスまで手にしていた。(これを伊勢丹マジックと言う。)

わたしの生活の拠点は、紛れもなく、新宿だ。

いくら引っ越しをして、一番近い駅が他のところであっても、新宿なのだ。

まず、大学が新宿にあった。有名なビル群の大学は40階まであって、エレベーターを間違えると大変なことになった。地下道でギリギリまで行けるので、雨の日は助かったし、地上を歩くことも全然あって、気分で新宿の街を歩いた。放課後には12階にある、新宿が一望できる場所で、ひたすら刺繍や編み物をしていた。友達ともよく話したし、地下の食堂でもよく話した。学生時代、わたしの街は?と言うテーマで取材を受けたとき、どこも浮かばず、新宿を選んだ。上京して、勉強が何より楽しくて、学校にいることがとても好きだった。

そして、アルバイトをしていた編集部も、新宿にあった。授業が終わったらすぐ向かって、春休みなんかは週5日働いていた。天職だ、と思うほど楽しかった。クリスマスにはリースを30件回って、友人の誕生日会には遅れて行き、学生時代を謳歌していたとは言えないけれど、わたしにとって編集部にいる自分が好きだったし、誰かの役に立てている、それが大好きな雑誌のため、というのも、頑張れる理由だった。今でも、師匠と呼べる人が、変わらずその場所で、頑張っている。

就職して、しばらくは新宿から遠く離れた場所で働いていたが、一年半後には新宿で働いていた。学生時代に遊べ、と教授に言われていたが、ずっと遊ぶよりも映画を見たり図書館にいたり、編集部にいることが遊ぶことと同等に楽しかったのだが、新宿で働いていた時ほど、遊んでいたことはないと思うし、もう二度とあんなに遊ぶことはないと思う。職場では遊ぶように仕事をし、仕事が終われば、文字通り遊びに行った。ゲームセンターでシナモン狩りをした。しすぎて、職場にある写真集にたまたまシナモンが写っていて、やべえこれ見ると行きたくなる、と言われるほど禁断症状も出ていた。たくさんお酒も飲んでごはんも食べた。終電を乗り損ねることだってした。深夜のビルの隙間でダンスをした。遊びすぎて、同じイヤホンが絡まって怒られた。街から街をたくさん歩いた。たくさん話をして、たくさんふざけて、たくさん写真を撮った。そして朝になればまた新宿にいた。

楽しかった日々はもう戻ってこない。今新宿に行っても、あんなに遊ぶように仕事をすることはない。そのあと遊ぶこともない。新宿にある思い出は思い出として、わたしのなかに永遠に残る。

昨日、新宿に行った。五月の暑い日だった。緊急事態宣言が出ているので、あまり遊ぶこともごはんを食べることもないのだけれど、ちょっとした用事があった。

魂の合う女の子たちと会って、話をした。これから何があっても、この街で誰かに出会って、また新しい何かを始めていく。

ハローグッバイ、またいつでもここで。人混みの中で君だけを見つけるよ。

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道のり(恵比寿・広尾)

夜、青い歩道橋をゆっくり歩いた。数年前、深夜までやってるカフェで、コーヒーとワインを交互に飲む遊びをして、何度も朝まで話した子がいる。いつも互いの家の中間地点だと思われる、白い歩道橋まで歩いて解散した。ある冬の思い出が、歩道橋というものでふっと浮き上がり、思い出になった過去のしあわせな記憶を反芻させる。

平日の夕方、近所のドトールは混んでいて、となりの席で主婦たちが終わらない会話を繰り返す。わたしはというと、買ったばかりのbeatsのヘッドフォンをして、ミツメのニューアルバムを聴いている。あたたかい春のなか、つめたいルイボスティーがのどを通る、音がする。

二年前の春は、こんなに穏やかじゃなかった。

きちんとしている兄は、結婚さえもきっちりしていて、品川のプリンスホテルで両家の顔合わせをおこなった。わたしの家に泊まっていた妹と、めずらしく遅れる兄と父を待つ。どうしたんだろうね、と言っていたら、兄に担がれた父の姿。昨晩、足が痛いと電話をしていたけれど、今朝から階段なんかが歩けなくなってしまったらしい。明日はスラムダンクの場所である、鎌倉へ行く予定だったが、低い声で兄から行けない、と告げられる。

「大丈夫?」「大丈夫さ、ちょっと足の動かんだけよ」と父は言うが、明らかにおかしい。兄に担がれたままプリンスホテルの上層階へ向かう。

顔合わせは終始きっちりした感じとぎこちない笑顔で終わろうとしていた。父はほとんど立たず、あとすこしで終わる、というかみんなが帰る準備をして部屋を出る瞬間−

父が倒れた。

一瞬スローモーションになった世界で、ばたん、と大きな音で体勢を崩した父の姿があって、驚いた。そこからはホテルの人が車椅子を用意してくれて、病院に行こうという話が出る。しん、と静まったエレベーターで、父がわたしにばつが悪そうに笑う。どうしちゃったの、お父さん。怖かった。けれどどこか、映画のワンシーンのようで、エレベーターの隅で、現実味がなかった。怖い気持ちは妹も同じで、ロビーに着くなり泣き出してしまった。兄は変わらず焦ることなくしゃんとしていた。日曜日、どこの病院へ行けるか、救急車で長い時間が過ぎる。ようやく受け入れ先が決まって、広尾の病院だった。兄は救急車に乗り、泣いている妹も連れて乗った。わたしはというと、兄の婚約者と、その両親とタクシーで向かった。謝るわたしに「家族になるんだから!」とお父さんに大きな声で言われたことを覚えている。

病院に着いて、検査を重ねるものの、原因がはっきりわからない。とりあえず今夜は入院することになった。不安と、病院に着いたから大丈夫、と思いたかったが、不安ばかり押し寄せてくる。結局病院を出たのは夜21時ごろで、兄と私と妹はお腹が減っていた。こんなときでもお腹は減る。妹が「ハンバーグが食べたい」と言ったので、すぐさま食べログで調べる。広尾の病院から恵比寿まで歩いてきたので、恵比寿のハンバーグ屋さんで食事する。兄が、力を合わせよう、久保家、えいえいおー!と言ってくれた。

その日の夜は、泣く妹と手を繋いで眠った。とにかく明日が来れば大丈夫だよね、と信じたいまま、わたしも眠った。

翌日、新宿で入院に必要なものを三人で買い出した。安さを重視する兄に連れられて、いくつものドラッグストアを行ったり来たりする。昼食はお肉で、妹だけ席が離れてしまって、何度も目を合わせて笑い合った。

恵比寿から広尾の病院までは15分ほどあって、ちょうど4月半ば前で、桜が綺麗だった。風に揺らめいて、散っていく様も美しかった。

父の元へ行くと、足だけだった麻痺が、腕まで広がっていた。笑えなかった。このまま麻痺が、上まで行ったら、いや、もっと−。

恐怖とか悲しみとかぜんぶまとめた真っ暗闇に落ちた音がした。

しっかり者の兄は、こんな状況でも、しゃべれるうちにと遺産や家の話をする。妹は変わらず泣いていた。明日はどうなるんだろう。あんなに美しいとおもった桜すら、切なくなる。

妹と神社にお守りを買いに行こうと夜話した。翌朝早く起きて、神田明神まで行って、兄がいないからとユニクロで父の必要なものを買った(最安値を探すのが兄の趣味だ)。神田明神ではお守りを買って、妹と笑顔のチェキを撮った。不安が顔に出ないように、笑った。

恵比寿でお昼を食べた。わたしのすきな「山長」といううどんやさんへ妹を連れて行った。美味しいねと食べて、また、桜の下、恵比寿から広尾を歩く。

どきどきしながら父の病室に着いた。すると、元気にぶんぶん腕と足を動かす父の姿があった。カリウム不足による四肢麻痺、という診断だった。カレーとおでんばかり食べていて、すっかりフルーツや野菜が足りなかったようだ。しかしカリウムが足りないというだけで、麻痺になるんだ‥。まあなんにせよ、治りそうでよかった。一安心して、帰る道は明るかった。

入院はしばらく続いて、父はゴールデンウィークまで東京で過ごした。早く長崎へ帰りたいと言えるほど元気になって、何度か東京でデートをした。

恵比寿から広尾の道のりは、桜と不安で混ざったもので、なつかしく、それでも生きていてくれてよかったとおもう。この季節が来るたび、満開の桜を見るたび、おもう。

今年は、満開の桜と飼い犬を抱っこする父の写真が届いた。どこでも元気に咲いていてね。

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my all, my room(荻窪)

国分寺の寮を大学2年の冬に出ることにした。確か、2月か3月だった。門限が厳しいことと学校まで1時間ほどかかっていたことが退寮する大きな理由だった。いざ寮を出るとなると、家電や家具を揃えないといけず、家電は量販店と無印良品に、家具はIKEAに買いに出かけた。IKEAは友達と行って、雅(あきら)という大学の女の子に案内してもらった。あきらはお人形みたいな女の子で、彼女しか持ってない感性が好きだった。今、どこでどうしてるんだろう。大学の友人のなかで唯一消息が不明だ。生きてる感じがしなくて、どこか現実味がない女の子だった。どこでもいいから元気に生きていてほしいな。

あきらと行った初めてのIKEAはとても広くて驚いた。父からもらったお金のなかで家具を選んだ。一番のお気に入りはベッド。お姫様みたいで白いものだった。マットレスが2枚あって、引き出しを開けるとダブルベッドになる仕組みだった。他に大きな買い物はそこまでせず、ベッドにお金をかけた。

部屋は新宿の不動産屋で決めた。学校からほど近く、今考えるとすこし怪しいところだった。住む場所は中央線がよく、さらに言えば西荻窪がよかった。どうしてかというと、当時好きだったアクセサリーや小物のお店が西荻窪にあったからだ。中央線は2年間使っていて好きになっていたし、あたらしいところは不安があった。西荻窪の近くで、オートロックあり、2階以上、が条件。徒歩分数はあまり気にしていなかったので、不動産から提案されたのは西荻窪のマンションと、荻窪のマンションだった。部屋の広さか何かがきっかけで、西荻窪ではなく荻窪のマンションに決めた。荻窪とはいえ、西荻窪方面に15分ほど歩いた場所にあって、好きなお店まで自転車があれば行けますよ、と不動産屋さんに言われたのを覚えている(しかし自転車で行ったのは片手で数えるくらい)。

荻窪の部屋にはベランダがなく、すりガラスがあって、となりのマンションのベランダがちょうど見える高さだった。ここが、わたしの、住む街になるんだ。風が気持ちいい日、ベランダからの青空を見て、これから住む部屋を、街を、嬉しく思った。

引っ越しは、IKEAに続いてあきらと、ほなみが手伝ってくれることになった。大きな家具家電がないので、自分たちで引っ越しをした。ほなみが国分寺から荻窪を何度も運転してくれた。荷物の運搬は夕方に終わって、雨が降っていた。きゃーきゃー言いながら車から部屋まで荷物を運んだ。荷物が運び終わって、夜から朝方にかけてベッドを組み立てた。予想以上にベッドが大きくて、部屋のほとんどを占めた。組み立てるのに一苦労して、深夜のテンションになったがなんとか完成して、3人で眠った。

2人が帰って、いよいよ一人暮らしが始まった。すこし遅れたホームシックになったりもして、なんとか楽しくやっていた。荻窪駅から15分ほど歩く家までの道、たまにバスに乗ったりしていたが、ほとんど歩いていた。歩いていると近所にイタリアンのお店があって、すごくよくしてもらっていた。感性がちょっと似ているお兄さんが一人で営んでいた。落ち込んだ時はわたしだけのスペシャルメニューをコースで出してくれ、千円でいいよ、またきてね、と言ってくれるような優しい人だった。親友が東京に遊びに来た時はかならずここでごはんを食べた。大切な人を連れて行きたくなるお店だった。今はもうやっていないお店で、でも、あたらしい場所で元気にしているのをインターネットで見た。いつかその場所に行きたいとずっと思っている。

住んでしばらくして、素敵な本屋さんも近くにできた。店内の奥では、店主の奥さんがカフェをやっていて、本を買って、カフェで読んだり、作業をしたり、そのあと映画や演劇を観に行く、という流れがわたしの休日となった。店主とも奥さんともよく話した。今も時々通っている。

本屋の近くには、音楽の趣味が合うお姉さんのケーキ屋さんもある。ケーキも焼き菓子もおいしい。気まぐれでやっているので、会えないことも多い。

大学を卒業して、就職をしても、同じマンションに住んだ。特に引っ越すあても理由もなかった。仕事が始まると毎晩遅くて、歩く気力もなく、タクシーで帰った。すこしずつ限界が近づいて、家についても、コートすら脱げず、ぼうっとするようになった。

色々あってこの家に一人で住むのは難しいということになって、引っ越し準備すらも一人でできずやってもらい、次の街へばたばた越した。わたしがちゃんと、一人暮らしをしたのは、この街がすべてだった。

引っ越してからも、たびたび通りかかったり、訪れたりするのが荻窪だ。今も好きな街。大事な街。部屋を埋め尽くすほどの映画のフライヤーや演劇のポスター、好きなポストカード。狭くて決して綺麗じゃなかったけど、わたしだけの部屋だった。好きな人が狭い〜、と言いながら泊りにきてくれた。大好きな人からのメールで泣いた誕生日、抱きしめてもらって、近くの大きい公園で遊んだ。その公園で、市子ちゃんが歌う声も聴いた。

東京で、わたしが初めて、一人で息をした場所。きらきら光ったまま、思い出は、消えないでいる。

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