あたらしい海(鳥取)

上京したのは9年前、大学への進学が理由だった。長崎から都会に出るにはいくつかの段階があって、ひとつは福岡だった。高校の友人たちも、兄も、福岡の大学に進学していた。いとこも福岡にいるし、長崎へも帰りやすい。そのため両親は福岡の学校を勧めたが、わたしは頑なに、東京の、ひとつの学校しか目指していなかった。3月、最後のチャンスで東京行きを決めた。そこからはバタバタと上京の準備が始まった。

夏休みの大きなイベントが「帰省」だった。寮の友人たちも次々と帰省していく。仙台、新潟、静岡、鹿児島。長崎はやはり帰省組のなかでも遠いほうで、当然、飛行機で帰る。羽田空港から1時間半、長くて2時間。飛行機に乗りさえすれば、さほど遠くない時間だ。

しかし、わたしは「短時間で帰れること」がつまらなく思えた。一瞬で、終わらせるのは、どうにも寂しくないか。東京から長崎の距離は、およそ960km。ほぼ1000kmだ。遠い。すごく遠い。果てしない距離なのに、飛行機だとそれは、1時間半で終わってしまう。

終わってしまうことの切なさを感じていたから、どうにも飛行機で帰るのは乗り気にならなかった。特に、夏休みシーズンは飛行機代がとても高くなる。お盆なんてとてもじゃないが帰れない。父が出してくれることもあったが、たった1時間半のために、何万円もかけるならば、あの服が買える、あのブランドだって夢じゃない、という考えがよぎる。大学生の夏休みは一ヶ月もあるから、さらにどうしても早く帰ることに意義を見出せず、悩んでいた。

青春18きっぷ」の存在を知ったのはこの頃だ。ちょうど18歳で、新潟に帰る友人から、それとも他の誰かから、聞いた気がする。青春18きっぷは、5日分の切符が1万円ほどで手に入り、日本中の鈍行列車に適応され、「18」とあるが、いくつになっても使えるらしい。買うのも面倒いらずで、簡単に、駅のみどりの窓口で手に入る。

 

これだ、と思った。長崎まで、旅をしよう。

 

帰省しても友人と会い、親とご飯を食べ、海を見て、のんびりするだけだ。特にやりたいこともやることもない。例えば、7日間帰省するなら、3日ほど長崎で過ごせば十分だ。残りの4日間を旅すればいい。そう思った。

調べると東京から長崎まで、鈍行列車を使うと約33時間かかる。1日と少しだ。それを4日間ほどかけてゆっくり進む。東京から各地を巡って長崎へ帰る旅だ。わくわくした。一時間半で済むものを、33時間かける贅沢。幸せでしかなかった。

1回目は、ひとりで敢行した。はじめに感じたのは、とにかく、静岡が長いこと。iPhoneのマップを何度見ても、静岡なのだ。静岡は横に広いんだ、ということを文字通り肌で実感した。ずっと乗りっぱなしだからお尻も痛い。

大きな荷物を持って、鈍行列車に乗っているから、お婆さんや地元の人に時折声をかけられる。「長崎まで!?」とかならず言われ、「がんばってね」と言われた。そういうことも、あたたかな思い出だ。

大阪や京都など訪れ、福岡まで来たらもう家はすぐそこだ。家について「ようやく帰ってきた…」という気持ちになる。その感情も好きだった。お尻は痛いし疲れるけれど、それ以上の達成感が好きだった。

 

2回目は、ふたり旅だった。ひろ、という高校の友人と行くことになった。どうしてそうなったかはさっぱり覚えていないし、ひろとはすごく仲が良かったわけでもなく、いい距離感の友人だった。変わらず静岡は長い。けれど、友人がいて、話す相手がいるのは救いだった。当時ラジオごっこがブームだったので、ひそひそと、ラジオごっこをしたりした。広島に着いてゆっくり観光もした。厳島神社へ初めて行ったのもこの時だ。

毎回、終えるたびに「もう飛行機がいい」と思う。けれど夏が来れば、「旅がはじまる!」とわくわくする。やめたいけれどやめられない。そんな夏の恒例行事になった。

さすがに往復はきついので、帰りは飛行機でさくっと帰ることが多かった。しかし3回目は、行きを飛行機にした。何かの都合があったらしい。帰りをまた旅にしよう、そう決めていた。

帰省すると、なんだかんだで両親と離れること、友人と会えなくなること、穏やかな長崎の時間、好きな美術館、ただの坂道、いろんなものが帰るのを寂しくさせる。父が毎度長崎空港まで車で送ってくれ、アルバイト先やお世話になった人に持っていかんね、とカステラを何本も買ってくれた。時間があればスタバでお茶を飲み、別れを惜しんだ。

 

3回目のときは、父ではなく、母と妹といっしょだった。当時できたばかりの、佐賀の武雄図書館まで行こうかな、と口にしたら、「お母さんも行きたい!」と車を出してくれることになった。そこに妹も行きたい、とやってきた。

今は増えたけれど、武雄図書館のような公立の図書館はまだ珍しかった。何度も写真を見て行きたいと思った。あこがれの図書館は夏休みということもあり混んでいたが、実際にあれだけの本が並んでいるのを目にすると感動する。見上げてうっとり、本に触れてうっとりした。

何時にここね、と約束をし、母と妹と離れて図書館を満喫した。そろそろ、東京方面へ進まないと、と時計を見て思った。集合して、そろそろ行こうか、と武雄図書館の近くの駅まで向かった。

一生の別れじゃないのに、帰省して別れる経験を母はほどんどしていなかったから、涙ぐみながら進んで行く電車を追いかけて、走っていた。そのシーンを思い出すと、ぶわあ、と泣きそうになる。東京で生活するということは、母との暮らしを、父との暮らしを、捨てるということだった。あまりにも、自分の夢ばかり見ていたと、泣いた。しかし行ったからには、夢を大事にしたかった。

青春18きっぷの旅も三年目、そろそろ大阪や京都などの都市部はいいかな、と思った。どうせならあまり行かないところに行こうと決めて、そのうちのひとつが鳥取だった。

鳥取には行ったことがなくて、砂丘のイメージしかなかったが、その砂丘すら訪れていないから、この際だし行こうと決めた。いつもは友人の家に泊まっていたが、鳥取に友人はいなかった。今でこそ慣れたが、ひとりでホテルに泊まるのは寂しい。母の記憶も相まって、寂しさが増幅しながら夜を迎えた。

朝、鳥取駅から砂丘へ向かうことにした。観光客向けの、小さな、赤いバス。それに乗れば、最終地点は鳥取砂丘だった。夏の、まだ暑い日だった。ミナペルホネンの、お気に入りの日傘を持ってバスに乗った。

しばらくすると、鳥取砂丘についた。ただただ、広い土地が眼前に広がって、これまで味わったことのない感覚になった。ぼうっと立っていたが、そろそろ足を進めないと、と思い、一歩ずつ前へ進んだ。

砂丘には、当たり前のようにラクダがいて驚いた。ここは日本だろうか。暑さもあって、錯覚した。日傘をおもわず広げて、ラクダには乗らず、自分の足で進んだ。坂道のように、砂丘が盛り上がっていて、どこまで進めば良いのかわからないまま、とにかく歩いた。

 

その瞬間、目の前に海が見えた。

今までに、見たことのない、海。はじめての、海。あたらしい、海。

そう思った。

実家から海は見えるし、おじいちゃんの家に行く時にも海を通るし、海水浴と温泉は伊王島だし、美術館の屋上から見る海はとても美しい。

けれど、見てきたそれらの海とは、全く、違っていた。

砂の先に海が見えて、それはきらきら、というよりは、飲み込まれそうな、ちょっと怖い感じがした。知らない海だった。繋がっているはずなのに、砂丘で見た海は、今までで一番、どっしりとしていた。

正直、鳥取砂丘の思い出はこの海ばかりだ。あとは、ミナペルホネンの日傘、入れるカバーを砂丘で失くしたこと。帰り、赤いバスに乗った時に、ないと気がついたが、これも思い出、と砂丘に置いてきた。今年、その日傘自体が壊れてしまって、壊れる前の最後の写真はこれだった。

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あれから、青春18きっぷで帰ることはなくなった。アルバイトが忙しくなったり、冬は寒いから絶対にしなかったり、就職活動が始まったり、就職をしたり。もうすることもないだろう。懐かしい記憶として、ずっとあるだろう。鳥取砂丘にも、この一度しか行っていない。あたらしい海の先に、眼差しの先に、わたしが、わたしたちが。ミナペルホネンのカバーも、風に乗っていったのか、砂丘の地層になっているのか。本当のことは、なにもわからないままでいい。