あなたはきっとわたしの星(二子玉川)

大学を卒業して、新卒で会社に入った。やりたいことが明確にあって入社を決めたが、最初の数年は勉強だと思って、どこの部署でも自分がやれることを全力でやると決めていた。配属先は二子玉川だった。ふたこたまがわ‥。予想もしていなかった場所だった。一度だけ電車で降りたことがある。オランダのテオ・ヤンセンの作品を観に行った(今でも覚えているがすごくいい作品だった)。その記憶しかなくて、配属前に、ドキドキしながら挨拶に行った。そこに配属される新人は他に3人いて、その3人は一緒に来たらしい。そうですか、と返事をした。入社してすぐに分かったことだけれど、どうにも同期に馴染めなかった。馴染めない数人の同期と一緒にいたが、その同期たちもすぐに辞めてしまった。かつての同期たちは、今どこで、何をしているのだろう。淡白だったので連絡を取り合うことも、また集まることも、きっともうない。ただ、あの頃より幸せだといいな、あの頃より苦しくないといいな、と思う。

 

配属初日、わたしはがっかりされてしまった。他の新人よりも経験があるからと、これもできる、あれもできると期待されていたらしい。経験はあったけれど、やり方がそれぞれ違うことで戸惑ったり、緊張のため思いの外時間がかかったりした。あれ、この子、「できる」と聞いていたのに‥。そんな空気が漂う。ああ、がっかりされてしまった。とても落ち込んだ。

その日の帰り道、ある先輩と一緒だった。聞けば、最寄り駅が2個違うだけのご近所だった。Hさんという女性だった。茶髪のショートヘアでロックな服装、口調も「てめー」と言ったり、お酒が好きだったり、わたしが出会ってきたことのない人だった。初めはすこし怖かった。ただでさえ、初日が上手くいかなくて怯えていたことも理由の一つだった。Hさんからはがっかりしたと言われていないけれど、きっと話は聞いているだろう。

二子玉川は、当時住んでいた家から1時間ほどかかった。その1時間のほとんどをHさんと帰ることになった。大勢の社員さんが散り散りになって、とうとうHさんと2人きりになった。何を言われるだろう。怒られるかもしれない。どんどん気持ちは落ち込んでいった。

Hさんがゆっくり口を開いたのは、丸ノ内線の車内だった。すこしだけ混んでいて座れずに、車両の端に二人で立っていた。

「あのね、覚えていてほしいことがある。」

Hさんが言った。仕事のことだ。いよいよ何か言われる、と思い身体がぴりぴりした。

「仕事は、最初から全部、完璧にできなくていい。でもね、思いやりだけは、忘れないでほしい。」

真っ直ぐな瞳だった。言葉の純度がきらきら光っていた。

てっきり怒られると思っていたから、拍子抜けした。思いやり。誰からも、言われなかった。けれど、この人が言っていることは、とても大事なことだ。言葉通り、忘れてはいけないことだ。仕事ができない、ということで一杯だったわたしを掬うような一言で、この言葉を聞いたのは、もう5年以上前になるというのに、光ったままわたしの心に在りつづけている。

 

最初の一言からHさんは他の誰よりも光っていて、わたしにとってかけがえのない人になった。担当している仕事は違うため、直接の上司じゃないが、仕事中以外はべったりだった。この人がいるから仕事を頑張れる気がした。

正直、仕事はかなりしんどかった。周りに合わせることもしんどかった。お昼休みは、誰とランチを食べるかが決まっていて、新人のわたしは気を遣ってばかりだった。ちっともお昼休みだと感じられず、たまに用事をつけて一人で逃げ出していた。映画のパンフレットや好きな本を食い入るように読んだり、イヤホンをつけてその上から手で押さえて世界を沈めたり。もちろん、泣いたこともあった。地下の社員食堂の隅で、絶望ばかり感じていた。Hさんは、そんなわたしの日々の、光だった。

 

配属されて半年。上司と面談があった。わたしがかねてより希望している部署へ行けるかもしれない、という話だった。もちろん面接などもあるが、受けてみれば?と上司は微笑んでくれた。わたしの夢を応援してくれていたが、まだ基盤が固まっていない気がした。仕事としても、社会人としても。Hさんの側でまだ学びたい、という思いもあった。迷うことなく、まだここにいたいです、と返事をした。絶好の機会だったかもしれないが、今じゃない、という気持ちが強かった。

 

Hさんは腕や指に、星のタトゥーをいくつも入れていた。赤い星星。

出会ってすぐに気がついたが、なぜ入れているのかなんて聞けなかった。聞いていいものかも分からなかった。しかし会話の流れで「どうして星のタトゥー入れたんですか?」と聞くことがあった。あれ、これ、聞いていいのだろうか。

しかしHさんは明るく言った。

「え?いずみちゃん、スターになりたいって思ったことないの?わたしはね、スターになりたいって、思ったの」

また、言葉と心が、光っていた。スターになりたいから、星のタトゥー。いくつもの、星。

それはきっと、Hさんがあるロックバンドの人を心底好きで、愛しているからということもある。毎年その人の誕生日にはケーキを買って、名前を入れてもらい、一人でお祝いするのだという。あまりにも真っ直ぐな愛。

Hさんはほんとうに真っ直ぐで、優しくて、いずみちゃんいずみちゃん、と可愛がってくれた。行きも帰りも一緒ならば、お昼も一緒で、午後の休憩はふたりで期間限定ショップの食べ物を思わず買って食べてしまう。夜はいっしょにビールを飲む。帰りは別れる瞬間まで手を振り合い、翌日にはまたおはようと出会う。とても愛しい日々だった。

 

しかし別れはきちんと来る。思ったより早かった。たった一年の日々だった。

Hさんがいなくなると分かれば、二子玉川にいる理由なんてなにひとつなかった。ちょうどまた、希望の部署が募集になっていた。今だ、と思った。そして半年後、希望の部署に異動した。

 

Hさんとの日々は、二子玉川での日々だった。多摩川に行ったこともない。会社と家の往復だった。その日々にHさんがいなければ、わたしはとっくに辞めていただろう。Hさんが初日に言ってくれたこと、朝まで飲んだこと、カラオケに行ったこと、たくさんのおはようとおやすみ。

二子玉川で見つけたのは、たったひとつの、星だった。

f:id:izumikubo0328:20210212193117j:plain