道のり(恵比寿・広尾)

夜、青い歩道橋をゆっくり歩いた。数年前、深夜までやってるカフェで、コーヒーとワインを交互に飲む遊びをして、何度も朝まで話した子がいる。いつも互いの家の中間地点だと思われる、白い歩道橋まで歩いて解散した。ある冬の思い出が、歩道橋というものでふっと浮き上がり、思い出になった過去のしあわせな記憶を反芻させる。

平日の夕方、近所のドトールは混んでいて、となりの席で主婦たちが終わらない会話を繰り返す。わたしはというと、買ったばかりのbeatsのヘッドフォンをして、ミツメのニューアルバムを聴いている。あたたかい春のなか、つめたいルイボスティーがのどを通る、音がする。

二年前の春は、こんなに穏やかじゃなかった。

きちんとしている兄は、結婚さえもきっちりしていて、品川のプリンスホテルで両家の顔合わせをおこなった。わたしの家に泊まっていた妹と、めずらしく遅れる兄と父を待つ。どうしたんだろうね、と言っていたら、兄に担がれた父の姿。昨晩、足が痛いと電話をしていたけれど、今朝から階段なんかが歩けなくなってしまったらしい。明日はスラムダンクの場所である、鎌倉へ行く予定だったが、低い声で兄から行けない、と告げられる。

「大丈夫?」「大丈夫さ、ちょっと足の動かんだけよ」と父は言うが、明らかにおかしい。兄に担がれたままプリンスホテルの上層階へ向かう。

顔合わせは終始きっちりした感じとぎこちない笑顔で終わろうとしていた。父はほとんど立たず、あとすこしで終わる、というかみんなが帰る準備をして部屋を出る瞬間−

父が倒れた。

一瞬スローモーションになった世界で、ばたん、と大きな音で体勢を崩した父の姿があって、驚いた。そこからはホテルの人が車椅子を用意してくれて、病院に行こうという話が出る。しん、と静まったエレベーターで、父がわたしにばつが悪そうに笑う。どうしちゃったの、お父さん。怖かった。けれどどこか、映画のワンシーンのようで、エレベーターの隅で、現実味がなかった。怖い気持ちは妹も同じで、ロビーに着くなり泣き出してしまった。兄は変わらず焦ることなくしゃんとしていた。日曜日、どこの病院へ行けるか、救急車で長い時間が過ぎる。ようやく受け入れ先が決まって、広尾の病院だった。兄は救急車に乗り、泣いている妹も連れて乗った。わたしはというと、兄の婚約者と、その両親とタクシーで向かった。謝るわたしに「家族になるんだから!」とお父さんに大きな声で言われたことを覚えている。

病院に着いて、検査を重ねるものの、原因がはっきりわからない。とりあえず今夜は入院することになった。不安と、病院に着いたから大丈夫、と思いたかったが、不安ばかり押し寄せてくる。結局病院を出たのは夜21時ごろで、兄と私と妹はお腹が減っていた。こんなときでもお腹は減る。妹が「ハンバーグが食べたい」と言ったので、すぐさま食べログで調べる。広尾の病院から恵比寿まで歩いてきたので、恵比寿のハンバーグ屋さんで食事する。兄が、力を合わせよう、久保家、えいえいおー!と言ってくれた。

その日の夜は、泣く妹と手を繋いで眠った。とにかく明日が来れば大丈夫だよね、と信じたいまま、わたしも眠った。

翌日、新宿で入院に必要なものを三人で買い出した。安さを重視する兄に連れられて、いくつものドラッグストアを行ったり来たりする。昼食はお肉で、妹だけ席が離れてしまって、何度も目を合わせて笑い合った。

恵比寿から広尾の病院までは15分ほどあって、ちょうど4月半ば前で、桜が綺麗だった。風に揺らめいて、散っていく様も美しかった。

父の元へ行くと、足だけだった麻痺が、腕まで広がっていた。笑えなかった。このまま麻痺が、上まで行ったら、いや、もっと−。

恐怖とか悲しみとかぜんぶまとめた真っ暗闇に落ちた音がした。

しっかり者の兄は、こんな状況でも、しゃべれるうちにと遺産や家の話をする。妹は変わらず泣いていた。明日はどうなるんだろう。あんなに美しいとおもった桜すら、切なくなる。

妹と神社にお守りを買いに行こうと夜話した。翌朝早く起きて、神田明神まで行って、兄がいないからとユニクロで父の必要なものを買った(最安値を探すのが兄の趣味だ)。神田明神ではお守りを買って、妹と笑顔のチェキを撮った。不安が顔に出ないように、笑った。

恵比寿でお昼を食べた。わたしのすきな「山長」といううどんやさんへ妹を連れて行った。美味しいねと食べて、また、桜の下、恵比寿から広尾を歩く。

どきどきしながら父の病室に着いた。すると、元気にぶんぶん腕と足を動かす父の姿があった。カリウム不足による四肢麻痺、という診断だった。カレーとおでんばかり食べていて、すっかりフルーツや野菜が足りなかったようだ。しかしカリウムが足りないというだけで、麻痺になるんだ‥。まあなんにせよ、治りそうでよかった。一安心して、帰る道は明るかった。

入院はしばらく続いて、父はゴールデンウィークまで東京で過ごした。早く長崎へ帰りたいと言えるほど元気になって、何度か東京でデートをした。

恵比寿から広尾の道のりは、桜と不安で混ざったもので、なつかしく、それでも生きていてくれてよかったとおもう。この季節が来るたび、満開の桜を見るたび、おもう。

今年は、満開の桜と飼い犬を抱っこする父の写真が届いた。どこでも元気に咲いていてね。

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