あふれる切なさを、僕らは(品川)

もし、いま、自分が死んだらどうなるんだろう、とよく考える。携帯の見てほしくないところ(メルカリで買ったものとかAmazonの欲しいものリストとか)見られるのかな、いやだな。死体はどんな状況なのかな、きれいに残っているのかな。たくさん書いてきた文章たち、更新がぴたと止まるんだな。クローゼットに収まらない服服服、呆れられそう。進行中の企画、誰が代わりに編集するのかな。


どこまで、誰に、わたしの死は、伝わるんだろう。


正直、小さいころから、死ぬことが怖くない。運良く、たまたま、生きぬいている日々だ。けれど、それは、いつか、止まる。かならず、いつか。


社会人になって、働いて、稼いでいるのに、家賃を払うことがとても嫌だった。家に住むお金は来月分だから、来月も、わたしは生きてるって、生きたいって、ことになる。そんなの嫌だ、と強く思っていた。そもそも生きることがそんなに得意じゃなかったし、生きていることが最高!ハッピー!幸せ!みたいに思えなかったからだ。それは今もそうだ。


高校生の頃、部活の顧問の先生に「ぶちょーは繊細だから。」と言われた。社会科準備室で丁寧に淹れられた紅茶とともに繰り返し。繊細だ、ということをはっきり告げられたのはこの時だ。それは毎日おなかが痛かった小学生からのものだろう。

そこから大人になった今でも、変わらずガラス瓶みたいな心で生きている。繊細な人は生きづらい、なんてよく言うけれど、わたしはあまりそう思わない。

繊細だから気付けるものがこの世界にはたくさんある。たくさん泣いて、たくさん切なくて、たくさん愛を知った。


会社員になって、知らず知らずのことも、知ってることも重なり、働ける状態ではなくなった。記憶をすぐに失い、人の目はまったく見れず眼鏡で誤魔化し、休憩時間は家に15分だけ帰り泣き、過ごしていた。そのうち迷惑をかけていることも分かり、会社をしばらくお休みすることになった。

お休みすると、初めのうちは近所すらも日中は怖くて歩けなかった。何もかもが怖くてたまらなかった。一ヶ月くらい経つと少しずつ落ち着いてきて、冬が来る頃には乗れなかった電車にも乗れるようになった。普通に生きるのは、ほんとうに、普通ではない。

電車に乗って行ったのは、品川駅だった。最寄駅からすこし遠くて、電車に乗っている時間も長い。ぶるぶる震えながら、ヘッドホンでガンガン好きな曲をかけて落ち着かせた。

品川に行くのは、新幹線に乗ってどこかへ行くためでもちょっと高級な美味しいものを食べるためでもなかった。

目的は、原美術館だった。


原美術館は、1979年に洋風邸宅を現代美術館として開設した場所で、同じ例だと東京都庭園美術館が挙げられる。

誰かが住んでいたという事実が、建物の随所に残っている。それは決して展示を邪魔するようなものではなく、寄り添うようなものだ。作家はこの場所でしか感じられないものを創り、鑑賞者はただただ静かにそれを眼差す。そんな、唯一の、場所。


上京してしばらく経った頃、文化を享受することがいかにその人を創るのか、出会った大人たちから学んだ。「人生とは選択することだよ」と教えられた。突然出された白いアスパラも、チチと呼ばれるおじちゃんも、その娘と絵を描いたことも、よく憶えている。

とにかく映画を見て、美術館に足を運んだ。そのうちのひとつが原美術館だった。この美術館が持つ空気、開催される展示、作家たち、わたしの中で特別だった。だからこそ、どんなに具合悪くても、しんどくても、訪れたいと思った。


品川駅から美術館までは、15分ほど歩く。その道すがらも、その季節で感じるものがあって好きだった。

何年も着てへとへとになった紺のロングコートを纏ってその日も向かった。

その日は、2018年の、クリスマスイブだった。クリスマス、今も、あまり好きではない。楽しかった思い出がきっと人より少ないせいだろう。すこしの不安を抱えつつ、美術館までの道を歩いた。

不安は的中した。


観たかった展示は、リー・キットの『僕らはもっと繊細だった。』で、なんとその日が最終日だった。クリスマスイブだから混んでないだろうという予想に反してかなり混んでいた。人の多い場所はまだ怖かった。外までチケットの列ができていた。呼吸がうまくできない。帰りたい。でも観たい。どうしても、観たい。気持ちが呼吸に勝った。ようやくチケットを手に入れ、いつもは人がまばらなのに、どこの部屋も混んでいる。順路よりもすいているところから観ることにした。しかしどこもすいていない。

だんだん本格的にしんどくなり、咄嗟にヘッドホンをつけ、その上から手を重ねた。祈りに近い行為だった。自分と展示に意識を集中させた。憶えているのは、むき出しの足をぶらぶらさせた映像で、文章が足元と共に流れる。その言葉たちを眼差せば、すこし落ち着いた。しばらくじっとその場所にいた。

リー・キットと対話しているような気分だった。わたしの繊細さは、わたしだけのもの。大切にしていいんだよ。守っていいんだよ。そう言われているようだった。

ほかはあまり憶えていない。奈良美智の部屋は好きでいつもかならず覗く。しゃがみ込んで見える景色と立って眺める景色はまるで違う。

帰りに品川駅近くの甘味処で、休憩をして、ゆっくり帰った。


原美術館で開催される展覧会は、リー・キットの次に、ソフィ・カルだった。興奮した。楽しみでたまらなかった。季節は、春をすぐそばで待っていた。水色のスカートをゆらゆらさせ、また品川駅から美術館まで歩いた。前ほど、怖さも不安もなかった。

ソフィ・カルを楽しみにしている人は多かった。しかしそこまで混んでいなくて、またわたしもすこしずつ快方に向かっていたからただ眼差しを煌めかせていた。

布地に刺繍で文字が綴られている展示があった。なぜかそれをみたとき、交換日記みたいだ、と思った。もう一度、訪れようと決めた。そしてそれは春の、わたしの誕生日に。


誕生日、もう一度品川駅に降り立ち、原美術館へ向かった。展示を見て、物販でソフィ・カルの過去の作品たちを眺められるポストカードセットを見つけた。タイトルは、『MY ALL』。決して手軽な値段ではなかったが、誕生日ということもあり、買うことにした。そして気になったのが、ガラスで出来たアクセサリーたち。特にぽこぽこと気泡が連なったような指輪が目に入った。可愛い。しかしポストカードセットを買った。名残惜しさを感じつつ、また原美術館から帰っていった。


誕生日の翌日から、ある人と交換日記をすることになった。それは半年以上も続いた。ソフィ・カルの展示をその人も眼差していた。そして快く交換日記がしたいというわたしの願望をかなえてくれた。


春の過ぎたあとの日。

原美術館に行って、気泡の連なるガラスの指輪を買ってもらった。お守りが欲しい、というまたもわたしの願望だった。そのお守りは、今も肌身離さず付けている。ガラスの指輪をいくつも買ったが、いくつも割ってしまった。

この指輪だけは、どんなことがあっても割れなかった。ほんとうに、お守りだ。


2021年1月、原美術館は閉館した。たくさんの人がたくさんの想いを閉まった。わたしもそのうちのひとりだ。

美しくて、ガラスのようで、それは弱さも強さもあった。特別な、大切な、場所だった。

今もわたしの、誰かの、心を守っている。


f:id:izumikubo0328:20210220193121j:plain