ダイヤの見える街(長崎)

小学3年生の頃、学校に行くのが毎日憂鬱だった。友人関係も上手くいってなかったけれど、担任の先生に嫌われていたことが、一番憂鬱な理由だった。

A先生は男の先生で、とても怖かった。教卓を叩いたり、教科書を投げたり。10年以上前のことなのに鮮明に覚えている。
幼心にも、他者、しかも大人の先生、から嫌われている、ということは、はっきりとした悪意とともに分かるものだった。先生が何かしらの理由でわたしのことが苦手だと、すぐに分かった。
母が、二者面談でA先生と話した。当時とても痩せていたわたしのことを、笑いながら拒食症かと訊いてきたらしい。怒り、悲しみながら、わたしに話した夜を覚えている。笑いながら、というのが、A先生らしいと思った。心配しての発言ではない感じが。
学校での生活は、A先生の顔色を伺うような毎日だった。朝の会で機嫌が悪いとか、この子はお気に入りの生徒なんだろうなとか、先生の目がとても怖かった。
そんなA先生が、機嫌が良かったのか、ある日わたしたち生徒を屋上へ連れて行ってくれた。とてもよく晴れた日だった。屋上は基本的に鍵がかかっていて、気軽に行ける場所ではなかったから、わたしたち生徒はとても喜んで、屋上ではしゃいでいた。
「はい、みんな集まって。」
長崎弁の訛りで、先生が言った。海が見えるほうにわたしたちは集められた。
「この街がどうして『ダイヤランド』って名付けられたか知っとるね?ここから三菱の造船所が見えるやろ。ほら、あそこ。三菱のマークは、ダイヤが集まってできとる。この街からは、それのよう見える。やけん、この街は『ダイヤランド』って名付けられたとよ。」
いつもの怖い目は、どこにもなくて、むしろ、A先生の目は、太陽の光できらきらして見えた。そんな先生の横顔を、覚えている。
 
ダイヤランド。
1984年に山を切り開いて出来た高級住宅地。ダイヤランド町、ではなく、ダイヤランド、とカタカナだけで書く。母曰く、高級住宅地で家賃を払えない人が多く出て、一時期は「夜逃げランド」と呼ばれていたと聞いたときは衝撃だった。
隣町にはかつて蛭子能収さんが住んでいたらしい。(社会人になって蛭子さんと初めてお会いしたときに、隣町に住んでいましたと言いそうになったが堪えた。)
ダイヤランドには、わたしが4歳の頃に引っ越したそうだ。残念だがまったく覚えていない。わたしが住んでいたのは高級な家ではなくて、ごくごく普通の団地だった。それでも寝る部屋、子供部屋、キッチン、リビングがある部屋はわたしにとっては満足できる家だった。
ダイヤランドで過ごしたのは4歳から18歳までの期間。小さい頃は、寝る部屋に布団を5つ並べて寝ていた。何度もぜんそくの発作で起き上がり、暗い部屋で自分の息の音だけが確かで母が来るまで耐えていた。そのことをベースに、小学二年生で小説にした。子供部屋には机が三つあった。わたしの机は、アンティーク調で磨りガラスの戸棚が可愛いもので、最近東京の家に持って来た。何十年経っても可愛いものは可愛い。その机はかつて、子供部屋の隅にあって、夕方になると夕日が綺麗に見える。勉強をしていたら差し込む夕日が美しくて、何度もベランダに出て、うっとり眺めていた。わたしはその景色が大好きだった。先生が言った造船所もよく見えた。
 
上京して9年、母からダイヤランドの家を離れることを決めたと連絡が来た。いわゆる実家がなくなるということだった。理由も理由だったので、止めることもなく、母からの連絡を何度も読んで、何度もダイヤランドでの記憶を思い出していた。
幼稚園、幼なじみのかなちゃんが遊びに来ておにぎりの大きさがあまりにも大きくて驚いたこと。小学生、文集を配りに回った日、樋口くんの家が広すぎてみんなで驚いたこと。夏休み、妹のほのちゃんとふれあいセンターまでじりじりする坂道を手を繋いで登ったこと。中学生、わたしの家で放課後遊ぶことが多くて、友達の方が先に家に着いていたこと(田舎なので鍵がよく開いていた)。高校生、けんかするたびの下の塔(団地には上の塔と下の塔があった)の原ちゃんの家に行っていたこと。原ちゃんのお母さんのからあげが本当に美味しかったこと。
 
嫌いだったA先生も、苦手だった学校たちも、嫌いは嫌いだし、苦手は苦手だ。思い出だから美しくなるなんて限らない。それでも、その時々で、嬉しいことも楽しいこともあった。A先生が、一度だけわたしのことをみんなの前で褒めてくれた。絵を描くときの目が生きている、と言ってくれたこと。俯いたのは嬉しかったからだ。中学生になっても給食を食べるのが遅いわたしに、「泣けば済むと思うなよ!人生そんな甘くないとぞ!ほら鮭食べろ!」と怒りながらずっとそばに居続けてくれた氏山くん。些細な出来事なのに、氏山くんもこのことを覚えていたらしい。高校生になって、学校にうまく通えないわたしのおでこを、母が優しく撫でてくれたこと。帰省して、妹の作った椅子に寝ながら読書したこと。母に見せた振袖姿。妹と見た星。花火をした公園。
 
いつか蛭子さんに会ったら、ダイヤランドの話をしよう。いつか住んでいた、わたしの街の話。
 

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