ごはんの会(国分寺)

上京して、まもなく10年になる。嘘だ、と思う。東京に来て10年。そんな膨大な時間が自分のなかで流れていたこと、それが漠然と、自然と、流れていたことに、ただ驚く、という言葉でも、納得できない、という言葉でも、なにか違うものがある。けれど、長崎にいたほうがよかったんじゃないかとか東京に来なきゃよかったなあとか、そんなことを考えたことは、10年間、一度もない。来てよかったと感慨深くなることもあまりなく、自分の人生のなかで、この流れは、当たり前のような、それこそ、自然な感じがする。


上京が決まったとき、大学の寮に入れと父親に言われた。けれど3月に進学が決まったため、寮の空きがあるか分からない状況だった。念のため、一人暮らしする家も探した。家賃は高かったが、父親が見つけたのは新宿のマンションで、土地勘がよくわからないながらも、都心に住むのか、と思った。寮よりもそっちのほうがいいな、と少し嬉しかった。しかし、あっさり入寮が決まり、新宿から離れた、中央線沿いの寮に入ることがばたばたと決まった。


寮があったのは、中央線の武蔵小金井駅国分寺駅のちょうどあいだの小平市。どちらの駅からも徒歩20分ほどという、好立地とは言えない場所にあった。基本的にバスで10分ほど揺られて着く。寮の入り口には寮母さんがいて、そこで鍵をもらう。わたしの部屋は214号室だった。214、と書かれた鍵を持って部屋に入る。机とベッド、クローゼットがある6畳ないくらいの部屋。フローリングではなくてピンクのカーペット。これから、わたしが住む部屋。実感もあまり湧かず、父と無印良品へ行き、ベッドのあれこれと必要なものを買ってまた寮へ戻った。

入寮の手続きが済み、入学式は見ずに父が帰ることになった。さみしそうに帰る背中を駅で見たことを10年経っても覚えている。


いよいよ東京での一人暮らしが始まった。まだ何度目かの寮母さんから鍵をもらうとき、「今、歓迎会が始まったところよ。」と言われた。歓迎会があることを把握しておらず、部屋に帰ってからどうしようかと考えた。一人で寂しかったし、とりあえず行ってみるか、と、寮母さんに言われた場所へ向かった。

女の子たちが大きな輪になって、そこにいた。真ん中にはささやかな料理、サンドイッチやフルーツ、そんなものがあり、誰かが話していた。

では、始めましょう、と、みんなが料理を取りに行ったり、近くの女の子同士会話を始めたりしていた。どうしようかと思っていたとき、これから長くを共にする彼女たちと出会った。


どうして、彼女たちと会話をする運びになったかはもうぼんやりとしている。ただ、同じ学科の子がいて、それで話すようになった気がする。ほなみ、と言う彼女は、金髪ボブで入学式のとき見かけた。ほなみと同郷だという女の子は、さゆりちゃん。さゆりちゃんと同じ学科という女の子は、ちなつちゃん。新潟と静岡出身だという。まだ寮で友達が一人もいなかったので、彼女たちと話ができてほっとした。話をしていくと、もうひとり、鹿児島のきりこちゃんを加えて、みんなで夜ごはんを作るらしい。


それから、寮に帰ると月曜、火曜、水曜、木曜、金曜日はそれぞれ担当の子の部屋に行くことになった。その曜日担当の子が、5人分のごはんを作る。今考えると、それまで料理をしていなかったのに急に5人分作るとはすごいことだ。

5人のなかで圧倒的に料理が上手かったのはきりこ。鹿児島の島出身で、独特の訛りがある(10年経った今も訛っている)彼女は、ポテトサラダが特に上手で、ほかにも手の込んだ料理をよく作ってくれた。きりこの水曜日はみんなの楽しみになっていた。金曜日のほなみ、火曜日のさゆり、木曜日のわたしは、オムライスが多かった。月曜日のちなってぃ(当時はこの呼び方ですごく嫌がっていた。今はちなとみんな呼ぶ。)はオムレツ。わたしのごはんはみんなのなかでどう映っていたんだろう。聞いたことはないのでわからない。


自然と5人は「ごはんの会」という名付けのもと、寮にいるとき、いないときも、いっしょにいることが多かった。心配していたホームシックなんて、一度もならなかった。


わいわいごはんを食べて、そのまま金曜ロードショーを見たり、舞台衣装のスパンコールを縫うのを手伝ったり、談話室で浴衣を夜な夜なほなみと縫ったりしていた。朝早くからラジオ体操をするさゆりの部屋に、朝が苦手なわたしは遅れて行った(よく起きれなくてほなみに起こしてもらっていたなあ)。メロンパンやホットケーキを朝から食べた土曜日のことも、雪が降って遊んだことも、留学へ行くちなのためにムービーや歌を作ったことも、それで寮長に怒られたことも、みんなの誕生日を祝い続けていたことも、たくさんの思い出を忘れてなんかいない。


2年生になるとき、きりこが退寮することになり、ちなも留学のため退寮することになった。

そして3年生になるとき、わたしも退寮することにした。

ごはんの会は実質1年で散り散りになったが、仲が良かったし、「ごはんの会」のラインは10年経った今も、鳴り続けている。

結婚したり、子供ができたり、故郷に戻ったり、5人が5通りの道を進んでいる。東京にいるのはもう2人だけで、結婚していないのも2人だけ。旅行をしたり、誰かの家に泊まったり、ごはんを作ったり、年に1回は会っていたが、最近はなかなか5人が揃うことはない。

そしてあれから、国分寺に行くこともない。久しぶりに行ったとき、再開発でまったく知らない場所になっていた。いつも乗っていたバス停も姿を消していた。あるのは、ごはんの会の、思い出だけだ。みんなで作った合言葉がある。


辛いとき

悲しいとき

魔法の言葉を

唱えてみよう

せーの

ごはんの会!


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あふれる切なさを、僕らは(品川)

もし、いま、自分が死んだらどうなるんだろう、とよく考える。携帯の見てほしくないところ(メルカリで買ったものとかAmazonの欲しいものリストとか)見られるのかな、いやだな。死体はどんな状況なのかな、きれいに残っているのかな。たくさん書いてきた文章たち、更新がぴたと止まるんだな。クローゼットに収まらない服服服、呆れられそう。進行中の企画、誰が代わりに編集するのかな。


どこまで、誰に、わたしの死は、伝わるんだろう。


正直、小さいころから、死ぬことが怖くない。運良く、たまたま、生きぬいている日々だ。けれど、それは、いつか、止まる。かならず、いつか。


社会人になって、働いて、稼いでいるのに、家賃を払うことがとても嫌だった。家に住むお金は来月分だから、来月も、わたしは生きてるって、生きたいって、ことになる。そんなの嫌だ、と強く思っていた。そもそも生きることがそんなに得意じゃなかったし、生きていることが最高!ハッピー!幸せ!みたいに思えなかったからだ。それは今もそうだ。


高校生の頃、部活の顧問の先生に「ぶちょーは繊細だから。」と言われた。社会科準備室で丁寧に淹れられた紅茶とともに繰り返し。繊細だ、ということをはっきり告げられたのはこの時だ。それは毎日おなかが痛かった小学生からのものだろう。

そこから大人になった今でも、変わらずガラス瓶みたいな心で生きている。繊細な人は生きづらい、なんてよく言うけれど、わたしはあまりそう思わない。

繊細だから気付けるものがこの世界にはたくさんある。たくさん泣いて、たくさん切なくて、たくさん愛を知った。


会社員になって、知らず知らずのことも、知ってることも重なり、働ける状態ではなくなった。記憶をすぐに失い、人の目はまったく見れず眼鏡で誤魔化し、休憩時間は家に15分だけ帰り泣き、過ごしていた。そのうち迷惑をかけていることも分かり、会社をしばらくお休みすることになった。

お休みすると、初めのうちは近所すらも日中は怖くて歩けなかった。何もかもが怖くてたまらなかった。一ヶ月くらい経つと少しずつ落ち着いてきて、冬が来る頃には乗れなかった電車にも乗れるようになった。普通に生きるのは、ほんとうに、普通ではない。

電車に乗って行ったのは、品川駅だった。最寄駅からすこし遠くて、電車に乗っている時間も長い。ぶるぶる震えながら、ヘッドホンでガンガン好きな曲をかけて落ち着かせた。

品川に行くのは、新幹線に乗ってどこかへ行くためでもちょっと高級な美味しいものを食べるためでもなかった。

目的は、原美術館だった。


原美術館は、1979年に洋風邸宅を現代美術館として開設した場所で、同じ例だと東京都庭園美術館が挙げられる。

誰かが住んでいたという事実が、建物の随所に残っている。それは決して展示を邪魔するようなものではなく、寄り添うようなものだ。作家はこの場所でしか感じられないものを創り、鑑賞者はただただ静かにそれを眼差す。そんな、唯一の、場所。


上京してしばらく経った頃、文化を享受することがいかにその人を創るのか、出会った大人たちから学んだ。「人生とは選択することだよ」と教えられた。突然出された白いアスパラも、チチと呼ばれるおじちゃんも、その娘と絵を描いたことも、よく憶えている。

とにかく映画を見て、美術館に足を運んだ。そのうちのひとつが原美術館だった。この美術館が持つ空気、開催される展示、作家たち、わたしの中で特別だった。だからこそ、どんなに具合悪くても、しんどくても、訪れたいと思った。


品川駅から美術館までは、15分ほど歩く。その道すがらも、その季節で感じるものがあって好きだった。

何年も着てへとへとになった紺のロングコートを纏ってその日も向かった。

その日は、2018年の、クリスマスイブだった。クリスマス、今も、あまり好きではない。楽しかった思い出がきっと人より少ないせいだろう。すこしの不安を抱えつつ、美術館までの道を歩いた。

不安は的中した。


観たかった展示は、リー・キットの『僕らはもっと繊細だった。』で、なんとその日が最終日だった。クリスマスイブだから混んでないだろうという予想に反してかなり混んでいた。人の多い場所はまだ怖かった。外までチケットの列ができていた。呼吸がうまくできない。帰りたい。でも観たい。どうしても、観たい。気持ちが呼吸に勝った。ようやくチケットを手に入れ、いつもは人がまばらなのに、どこの部屋も混んでいる。順路よりもすいているところから観ることにした。しかしどこもすいていない。

だんだん本格的にしんどくなり、咄嗟にヘッドホンをつけ、その上から手を重ねた。祈りに近い行為だった。自分と展示に意識を集中させた。憶えているのは、むき出しの足をぶらぶらさせた映像で、文章が足元と共に流れる。その言葉たちを眼差せば、すこし落ち着いた。しばらくじっとその場所にいた。

リー・キットと対話しているような気分だった。わたしの繊細さは、わたしだけのもの。大切にしていいんだよ。守っていいんだよ。そう言われているようだった。

ほかはあまり憶えていない。奈良美智の部屋は好きでいつもかならず覗く。しゃがみ込んで見える景色と立って眺める景色はまるで違う。

帰りに品川駅近くの甘味処で、休憩をして、ゆっくり帰った。


原美術館で開催される展覧会は、リー・キットの次に、ソフィ・カルだった。興奮した。楽しみでたまらなかった。季節は、春をすぐそばで待っていた。水色のスカートをゆらゆらさせ、また品川駅から美術館まで歩いた。前ほど、怖さも不安もなかった。

ソフィ・カルを楽しみにしている人は多かった。しかしそこまで混んでいなくて、またわたしもすこしずつ快方に向かっていたからただ眼差しを煌めかせていた。

布地に刺繍で文字が綴られている展示があった。なぜかそれをみたとき、交換日記みたいだ、と思った。もう一度、訪れようと決めた。そしてそれは春の、わたしの誕生日に。


誕生日、もう一度品川駅に降り立ち、原美術館へ向かった。展示を見て、物販でソフィ・カルの過去の作品たちを眺められるポストカードセットを見つけた。タイトルは、『MY ALL』。決して手軽な値段ではなかったが、誕生日ということもあり、買うことにした。そして気になったのが、ガラスで出来たアクセサリーたち。特にぽこぽこと気泡が連なったような指輪が目に入った。可愛い。しかしポストカードセットを買った。名残惜しさを感じつつ、また原美術館から帰っていった。


誕生日の翌日から、ある人と交換日記をすることになった。それは半年以上も続いた。ソフィ・カルの展示をその人も眼差していた。そして快く交換日記がしたいというわたしの願望をかなえてくれた。


春の過ぎたあとの日。

原美術館に行って、気泡の連なるガラスの指輪を買ってもらった。お守りが欲しい、というまたもわたしの願望だった。そのお守りは、今も肌身離さず付けている。ガラスの指輪をいくつも買ったが、いくつも割ってしまった。

この指輪だけは、どんなことがあっても割れなかった。ほんとうに、お守りだ。


2021年1月、原美術館は閉館した。たくさんの人がたくさんの想いを閉まった。わたしもそのうちのひとりだ。

美しくて、ガラスのようで、それは弱さも強さもあった。特別な、大切な、場所だった。

今もわたしの、誰かの、心を守っている。


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あなたはきっとわたしの星(二子玉川)

大学を卒業して、新卒で会社に入った。やりたいことが明確にあって入社を決めたが、最初の数年は勉強だと思って、どこの部署でも自分がやれることを全力でやると決めていた。配属先は二子玉川だった。ふたこたまがわ‥。予想もしていなかった場所だった。一度だけ電車で降りたことがある。オランダのテオ・ヤンセンの作品を観に行った(今でも覚えているがすごくいい作品だった)。その記憶しかなくて、配属前に、ドキドキしながら挨拶に行った。そこに配属される新人は他に3人いて、その3人は一緒に来たらしい。そうですか、と返事をした。入社してすぐに分かったことだけれど、どうにも同期に馴染めなかった。馴染めない数人の同期と一緒にいたが、その同期たちもすぐに辞めてしまった。かつての同期たちは、今どこで、何をしているのだろう。淡白だったので連絡を取り合うことも、また集まることも、きっともうない。ただ、あの頃より幸せだといいな、あの頃より苦しくないといいな、と思う。

 

配属初日、わたしはがっかりされてしまった。他の新人よりも経験があるからと、これもできる、あれもできると期待されていたらしい。経験はあったけれど、やり方がそれぞれ違うことで戸惑ったり、緊張のため思いの外時間がかかったりした。あれ、この子、「できる」と聞いていたのに‥。そんな空気が漂う。ああ、がっかりされてしまった。とても落ち込んだ。

その日の帰り道、ある先輩と一緒だった。聞けば、最寄り駅が2個違うだけのご近所だった。Hさんという女性だった。茶髪のショートヘアでロックな服装、口調も「てめー」と言ったり、お酒が好きだったり、わたしが出会ってきたことのない人だった。初めはすこし怖かった。ただでさえ、初日が上手くいかなくて怯えていたことも理由の一つだった。Hさんからはがっかりしたと言われていないけれど、きっと話は聞いているだろう。

二子玉川は、当時住んでいた家から1時間ほどかかった。その1時間のほとんどをHさんと帰ることになった。大勢の社員さんが散り散りになって、とうとうHさんと2人きりになった。何を言われるだろう。怒られるかもしれない。どんどん気持ちは落ち込んでいった。

Hさんがゆっくり口を開いたのは、丸ノ内線の車内だった。すこしだけ混んでいて座れずに、車両の端に二人で立っていた。

「あのね、覚えていてほしいことがある。」

Hさんが言った。仕事のことだ。いよいよ何か言われる、と思い身体がぴりぴりした。

「仕事は、最初から全部、完璧にできなくていい。でもね、思いやりだけは、忘れないでほしい。」

真っ直ぐな瞳だった。言葉の純度がきらきら光っていた。

てっきり怒られると思っていたから、拍子抜けした。思いやり。誰からも、言われなかった。けれど、この人が言っていることは、とても大事なことだ。言葉通り、忘れてはいけないことだ。仕事ができない、ということで一杯だったわたしを掬うような一言で、この言葉を聞いたのは、もう5年以上前になるというのに、光ったままわたしの心に在りつづけている。

 

最初の一言からHさんは他の誰よりも光っていて、わたしにとってかけがえのない人になった。担当している仕事は違うため、直接の上司じゃないが、仕事中以外はべったりだった。この人がいるから仕事を頑張れる気がした。

正直、仕事はかなりしんどかった。周りに合わせることもしんどかった。お昼休みは、誰とランチを食べるかが決まっていて、新人のわたしは気を遣ってばかりだった。ちっともお昼休みだと感じられず、たまに用事をつけて一人で逃げ出していた。映画のパンフレットや好きな本を食い入るように読んだり、イヤホンをつけてその上から手で押さえて世界を沈めたり。もちろん、泣いたこともあった。地下の社員食堂の隅で、絶望ばかり感じていた。Hさんは、そんなわたしの日々の、光だった。

 

配属されて半年。上司と面談があった。わたしがかねてより希望している部署へ行けるかもしれない、という話だった。もちろん面接などもあるが、受けてみれば?と上司は微笑んでくれた。わたしの夢を応援してくれていたが、まだ基盤が固まっていない気がした。仕事としても、社会人としても。Hさんの側でまだ学びたい、という思いもあった。迷うことなく、まだここにいたいです、と返事をした。絶好の機会だったかもしれないが、今じゃない、という気持ちが強かった。

 

Hさんは腕や指に、星のタトゥーをいくつも入れていた。赤い星星。

出会ってすぐに気がついたが、なぜ入れているのかなんて聞けなかった。聞いていいものかも分からなかった。しかし会話の流れで「どうして星のタトゥー入れたんですか?」と聞くことがあった。あれ、これ、聞いていいのだろうか。

しかしHさんは明るく言った。

「え?いずみちゃん、スターになりたいって思ったことないの?わたしはね、スターになりたいって、思ったの」

また、言葉と心が、光っていた。スターになりたいから、星のタトゥー。いくつもの、星。

それはきっと、Hさんがあるロックバンドの人を心底好きで、愛しているからということもある。毎年その人の誕生日にはケーキを買って、名前を入れてもらい、一人でお祝いするのだという。あまりにも真っ直ぐな愛。

Hさんはほんとうに真っ直ぐで、優しくて、いずみちゃんいずみちゃん、と可愛がってくれた。行きも帰りも一緒ならば、お昼も一緒で、午後の休憩はふたりで期間限定ショップの食べ物を思わず買って食べてしまう。夜はいっしょにビールを飲む。帰りは別れる瞬間まで手を振り合い、翌日にはまたおはようと出会う。とても愛しい日々だった。

 

しかし別れはきちんと来る。思ったより早かった。たった一年の日々だった。

Hさんがいなくなると分かれば、二子玉川にいる理由なんてなにひとつなかった。ちょうどまた、希望の部署が募集になっていた。今だ、と思った。そして半年後、希望の部署に異動した。

 

Hさんとの日々は、二子玉川での日々だった。多摩川に行ったこともない。会社と家の往復だった。その日々にHさんがいなければ、わたしはとっくに辞めていただろう。Hさんが初日に言ってくれたこと、朝まで飲んだこと、カラオケに行ったこと、たくさんのおはようとおやすみ。

二子玉川で見つけたのは、たったひとつの、星だった。

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あたらしい海(鳥取)

上京したのは9年前、大学への進学が理由だった。長崎から都会に出るにはいくつかの段階があって、ひとつは福岡だった。高校の友人たちも、兄も、福岡の大学に進学していた。いとこも福岡にいるし、長崎へも帰りやすい。そのため両親は福岡の学校を勧めたが、わたしは頑なに、東京の、ひとつの学校しか目指していなかった。3月、最後のチャンスで東京行きを決めた。そこからはバタバタと上京の準備が始まった。

夏休みの大きなイベントが「帰省」だった。寮の友人たちも次々と帰省していく。仙台、新潟、静岡、鹿児島。長崎はやはり帰省組のなかでも遠いほうで、当然、飛行機で帰る。羽田空港から1時間半、長くて2時間。飛行機に乗りさえすれば、さほど遠くない時間だ。

しかし、わたしは「短時間で帰れること」がつまらなく思えた。一瞬で、終わらせるのは、どうにも寂しくないか。東京から長崎の距離は、およそ960km。ほぼ1000kmだ。遠い。すごく遠い。果てしない距離なのに、飛行機だとそれは、1時間半で終わってしまう。

終わってしまうことの切なさを感じていたから、どうにも飛行機で帰るのは乗り気にならなかった。特に、夏休みシーズンは飛行機代がとても高くなる。お盆なんてとてもじゃないが帰れない。父が出してくれることもあったが、たった1時間半のために、何万円もかけるならば、あの服が買える、あのブランドだって夢じゃない、という考えがよぎる。大学生の夏休みは一ヶ月もあるから、さらにどうしても早く帰ることに意義を見出せず、悩んでいた。

青春18きっぷ」の存在を知ったのはこの頃だ。ちょうど18歳で、新潟に帰る友人から、それとも他の誰かから、聞いた気がする。青春18きっぷは、5日分の切符が1万円ほどで手に入り、日本中の鈍行列車に適応され、「18」とあるが、いくつになっても使えるらしい。買うのも面倒いらずで、簡単に、駅のみどりの窓口で手に入る。

 

これだ、と思った。長崎まで、旅をしよう。

 

帰省しても友人と会い、親とご飯を食べ、海を見て、のんびりするだけだ。特にやりたいこともやることもない。例えば、7日間帰省するなら、3日ほど長崎で過ごせば十分だ。残りの4日間を旅すればいい。そう思った。

調べると東京から長崎まで、鈍行列車を使うと約33時間かかる。1日と少しだ。それを4日間ほどかけてゆっくり進む。東京から各地を巡って長崎へ帰る旅だ。わくわくした。一時間半で済むものを、33時間かける贅沢。幸せでしかなかった。

1回目は、ひとりで敢行した。はじめに感じたのは、とにかく、静岡が長いこと。iPhoneのマップを何度見ても、静岡なのだ。静岡は横に広いんだ、ということを文字通り肌で実感した。ずっと乗りっぱなしだからお尻も痛い。

大きな荷物を持って、鈍行列車に乗っているから、お婆さんや地元の人に時折声をかけられる。「長崎まで!?」とかならず言われ、「がんばってね」と言われた。そういうことも、あたたかな思い出だ。

大阪や京都など訪れ、福岡まで来たらもう家はすぐそこだ。家について「ようやく帰ってきた…」という気持ちになる。その感情も好きだった。お尻は痛いし疲れるけれど、それ以上の達成感が好きだった。

 

2回目は、ふたり旅だった。ひろ、という高校の友人と行くことになった。どうしてそうなったかはさっぱり覚えていないし、ひろとはすごく仲が良かったわけでもなく、いい距離感の友人だった。変わらず静岡は長い。けれど、友人がいて、話す相手がいるのは救いだった。当時ラジオごっこがブームだったので、ひそひそと、ラジオごっこをしたりした。広島に着いてゆっくり観光もした。厳島神社へ初めて行ったのもこの時だ。

毎回、終えるたびに「もう飛行機がいい」と思う。けれど夏が来れば、「旅がはじまる!」とわくわくする。やめたいけれどやめられない。そんな夏の恒例行事になった。

さすがに往復はきついので、帰りは飛行機でさくっと帰ることが多かった。しかし3回目は、行きを飛行機にした。何かの都合があったらしい。帰りをまた旅にしよう、そう決めていた。

帰省すると、なんだかんだで両親と離れること、友人と会えなくなること、穏やかな長崎の時間、好きな美術館、ただの坂道、いろんなものが帰るのを寂しくさせる。父が毎度長崎空港まで車で送ってくれ、アルバイト先やお世話になった人に持っていかんね、とカステラを何本も買ってくれた。時間があればスタバでお茶を飲み、別れを惜しんだ。

 

3回目のときは、父ではなく、母と妹といっしょだった。当時できたばかりの、佐賀の武雄図書館まで行こうかな、と口にしたら、「お母さんも行きたい!」と車を出してくれることになった。そこに妹も行きたい、とやってきた。

今は増えたけれど、武雄図書館のような公立の図書館はまだ珍しかった。何度も写真を見て行きたいと思った。あこがれの図書館は夏休みということもあり混んでいたが、実際にあれだけの本が並んでいるのを目にすると感動する。見上げてうっとり、本に触れてうっとりした。

何時にここね、と約束をし、母と妹と離れて図書館を満喫した。そろそろ、東京方面へ進まないと、と時計を見て思った。集合して、そろそろ行こうか、と武雄図書館の近くの駅まで向かった。

一生の別れじゃないのに、帰省して別れる経験を母はほどんどしていなかったから、涙ぐみながら進んで行く電車を追いかけて、走っていた。そのシーンを思い出すと、ぶわあ、と泣きそうになる。東京で生活するということは、母との暮らしを、父との暮らしを、捨てるということだった。あまりにも、自分の夢ばかり見ていたと、泣いた。しかし行ったからには、夢を大事にしたかった。

青春18きっぷの旅も三年目、そろそろ大阪や京都などの都市部はいいかな、と思った。どうせならあまり行かないところに行こうと決めて、そのうちのひとつが鳥取だった。

鳥取には行ったことがなくて、砂丘のイメージしかなかったが、その砂丘すら訪れていないから、この際だし行こうと決めた。いつもは友人の家に泊まっていたが、鳥取に友人はいなかった。今でこそ慣れたが、ひとりでホテルに泊まるのは寂しい。母の記憶も相まって、寂しさが増幅しながら夜を迎えた。

朝、鳥取駅から砂丘へ向かうことにした。観光客向けの、小さな、赤いバス。それに乗れば、最終地点は鳥取砂丘だった。夏の、まだ暑い日だった。ミナペルホネンの、お気に入りの日傘を持ってバスに乗った。

しばらくすると、鳥取砂丘についた。ただただ、広い土地が眼前に広がって、これまで味わったことのない感覚になった。ぼうっと立っていたが、そろそろ足を進めないと、と思い、一歩ずつ前へ進んだ。

砂丘には、当たり前のようにラクダがいて驚いた。ここは日本だろうか。暑さもあって、錯覚した。日傘をおもわず広げて、ラクダには乗らず、自分の足で進んだ。坂道のように、砂丘が盛り上がっていて、どこまで進めば良いのかわからないまま、とにかく歩いた。

 

その瞬間、目の前に海が見えた。

今までに、見たことのない、海。はじめての、海。あたらしい、海。

そう思った。

実家から海は見えるし、おじいちゃんの家に行く時にも海を通るし、海水浴と温泉は伊王島だし、美術館の屋上から見る海はとても美しい。

けれど、見てきたそれらの海とは、全く、違っていた。

砂の先に海が見えて、それはきらきら、というよりは、飲み込まれそうな、ちょっと怖い感じがした。知らない海だった。繋がっているはずなのに、砂丘で見た海は、今までで一番、どっしりとしていた。

正直、鳥取砂丘の思い出はこの海ばかりだ。あとは、ミナペルホネンの日傘、入れるカバーを砂丘で失くしたこと。帰り、赤いバスに乗った時に、ないと気がついたが、これも思い出、と砂丘に置いてきた。今年、その日傘自体が壊れてしまって、壊れる前の最後の写真はこれだった。

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あれから、青春18きっぷで帰ることはなくなった。アルバイトが忙しくなったり、冬は寒いから絶対にしなかったり、就職活動が始まったり、就職をしたり。もうすることもないだろう。懐かしい記憶として、ずっとあるだろう。鳥取砂丘にも、この一度しか行っていない。あたらしい海の先に、眼差しの先に、わたしが、わたしたちが。ミナペルホネンのカバーも、風に乗っていったのか、砂丘の地層になっているのか。本当のことは、なにもわからないままでいい。

ダイヤの見える街(長崎)

小学3年生の頃、学校に行くのが毎日憂鬱だった。友人関係も上手くいってなかったけれど、担任の先生に嫌われていたことが、一番憂鬱な理由だった。

A先生は男の先生で、とても怖かった。教卓を叩いたり、教科書を投げたり。10年以上前のことなのに鮮明に覚えている。
幼心にも、他者、しかも大人の先生、から嫌われている、ということは、はっきりとした悪意とともに分かるものだった。先生が何かしらの理由でわたしのことが苦手だと、すぐに分かった。
母が、二者面談でA先生と話した。当時とても痩せていたわたしのことを、笑いながら拒食症かと訊いてきたらしい。怒り、悲しみながら、わたしに話した夜を覚えている。笑いながら、というのが、A先生らしいと思った。心配しての発言ではない感じが。
学校での生活は、A先生の顔色を伺うような毎日だった。朝の会で機嫌が悪いとか、この子はお気に入りの生徒なんだろうなとか、先生の目がとても怖かった。
そんなA先生が、機嫌が良かったのか、ある日わたしたち生徒を屋上へ連れて行ってくれた。とてもよく晴れた日だった。屋上は基本的に鍵がかかっていて、気軽に行ける場所ではなかったから、わたしたち生徒はとても喜んで、屋上ではしゃいでいた。
「はい、みんな集まって。」
長崎弁の訛りで、先生が言った。海が見えるほうにわたしたちは集められた。
「この街がどうして『ダイヤランド』って名付けられたか知っとるね?ここから三菱の造船所が見えるやろ。ほら、あそこ。三菱のマークは、ダイヤが集まってできとる。この街からは、それのよう見える。やけん、この街は『ダイヤランド』って名付けられたとよ。」
いつもの怖い目は、どこにもなくて、むしろ、A先生の目は、太陽の光できらきらして見えた。そんな先生の横顔を、覚えている。
 
ダイヤランド。
1984年に山を切り開いて出来た高級住宅地。ダイヤランド町、ではなく、ダイヤランド、とカタカナだけで書く。母曰く、高級住宅地で家賃を払えない人が多く出て、一時期は「夜逃げランド」と呼ばれていたと聞いたときは衝撃だった。
隣町にはかつて蛭子能収さんが住んでいたらしい。(社会人になって蛭子さんと初めてお会いしたときに、隣町に住んでいましたと言いそうになったが堪えた。)
ダイヤランドには、わたしが4歳の頃に引っ越したそうだ。残念だがまったく覚えていない。わたしが住んでいたのは高級な家ではなくて、ごくごく普通の団地だった。それでも寝る部屋、子供部屋、キッチン、リビングがある部屋はわたしにとっては満足できる家だった。
ダイヤランドで過ごしたのは4歳から18歳までの期間。小さい頃は、寝る部屋に布団を5つ並べて寝ていた。何度もぜんそくの発作で起き上がり、暗い部屋で自分の息の音だけが確かで母が来るまで耐えていた。そのことをベースに、小学二年生で小説にした。子供部屋には机が三つあった。わたしの机は、アンティーク調で磨りガラスの戸棚が可愛いもので、最近東京の家に持って来た。何十年経っても可愛いものは可愛い。その机はかつて、子供部屋の隅にあって、夕方になると夕日が綺麗に見える。勉強をしていたら差し込む夕日が美しくて、何度もベランダに出て、うっとり眺めていた。わたしはその景色が大好きだった。先生が言った造船所もよく見えた。
 
上京して9年、母からダイヤランドの家を離れることを決めたと連絡が来た。いわゆる実家がなくなるということだった。理由も理由だったので、止めることもなく、母からの連絡を何度も読んで、何度もダイヤランドでの記憶を思い出していた。
幼稚園、幼なじみのかなちゃんが遊びに来ておにぎりの大きさがあまりにも大きくて驚いたこと。小学生、文集を配りに回った日、樋口くんの家が広すぎてみんなで驚いたこと。夏休み、妹のほのちゃんとふれあいセンターまでじりじりする坂道を手を繋いで登ったこと。中学生、わたしの家で放課後遊ぶことが多くて、友達の方が先に家に着いていたこと(田舎なので鍵がよく開いていた)。高校生、けんかするたびの下の塔(団地には上の塔と下の塔があった)の原ちゃんの家に行っていたこと。原ちゃんのお母さんのからあげが本当に美味しかったこと。
 
嫌いだったA先生も、苦手だった学校たちも、嫌いは嫌いだし、苦手は苦手だ。思い出だから美しくなるなんて限らない。それでも、その時々で、嬉しいことも楽しいこともあった。A先生が、一度だけわたしのことをみんなの前で褒めてくれた。絵を描くときの目が生きている、と言ってくれたこと。俯いたのは嬉しかったからだ。中学生になっても給食を食べるのが遅いわたしに、「泣けば済むと思うなよ!人生そんな甘くないとぞ!ほら鮭食べろ!」と怒りながらずっとそばに居続けてくれた氏山くん。些細な出来事なのに、氏山くんもこのことを覚えていたらしい。高校生になって、学校にうまく通えないわたしのおでこを、母が優しく撫でてくれたこと。帰省して、妹の作った椅子に寝ながら読書したこと。母に見せた振袖姿。妹と見た星。花火をした公園。
 
いつか蛭子さんに会ったら、ダイヤランドの話をしよう。いつか住んでいた、わたしの街の話。
 

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